◆『写真記録パレスチナ (1)』(日本図書センター)の巻頭で筑紫哲也は記述する

9.11の「衝突」に至る道筋の根源として「パレスチナ問題」があり、その解決なくして、どんな「衝突」が繰り返されようとも終わりはやってこないことは今や明らかである。いくらキリスト教ユダヤ教イスラムの歴史的対立が背後にあると言っても、それが神学論争の域を超えて、流血、テロ、戦争になるのは具体的論争点がある時で、それがパレスチナだからである。/広河隆一氏のカメラとペンは35年にわたって、その様相をとらえ続けてきた。

◆そもそも、イラク侵攻の真相は大量破壊兵器イスラエルが攻撃される芽を前もって摘んでおこうとするネオコンの思惑であるとも言われ、イラク人の解放を真に願っていたのなら、「罪のない人々」が虐殺された、されている事例は山ほどあるのに、今回だけ、国連、国際世論の反対をものともせず、自由戦士となって戦った損得勘定抜きの振る舞いを自画自賛するなら、今度、正義の使いブッシュさんはパレスチナ人の解放のためにイスラエルに鉄槌を加えるのであろうか。世界中に発信される情報はアメリカに都合の良い操作工夫されたものであると、文句を言ったところで、負け犬の遠吠えになる。如何にアメリカ政府を飛び越えて、直接、アメリカの人々に訴えるか、「ヒロシマ」の展示も儘ならぬ現状で、本書のような写真記録はどの程度実効性を持つ事が出来るのか。ニューヨークで彼の写真展は可能なのか。彼は実効性を信じて、何十年とパレスチナだけでなく、世界の紛争地帯、又はチェルノブイリ等の原発事故の現場へと、駆け巡る。世界の人々に直接、想いが伝わると信じて記録を積み重ねたのであろう。
池澤夏樹の[指さす人]という広河隆一に対する評は、見る側が自他の壁を容易に越境する想像力がないと、彼の強い想いも伝わらないだろう。強引に見せる写真の説得力は、特に映像にあって、今回、イラクから、戦争報道の洪水を浴びたわけだが、それらは「エンベッド」(前線部隊と寝食を共にして行動する従軍取材)方式、ディバーシステム(政府が画像等をパッケージしてきれいで見やすい情報として提供する)等による金のかかった情報提供に太刀打ち出来るのか。その時、演出、捏造、編集の許容線引きは、如何様な修羅場があるのか、私はいつもその事が気になる。フレームの外が見える写真が報道写真足りえるのだろう。
◆そういうマスメディアの攻勢に彼個人の眼を通した写真でどこまで、メッセージが伝わるのか、心許ないのが、私の偽らざる心境である。彼の写真を報道性で評価するのか、芸術性で評価するのか、彼は前線報道写真家でなく、後から考えながら、やって来る調査報道を主としたフォットジャーナリストらしいが、彼の『パレスチナ』(岩波新書)を読む限り、御行儀の良い大文字の反論を許さないものであって、悩みのない優等生的作文が気になる。これも、読み手の私がわけのわからぬ矛盾好みの性向があるので、あまり、説得力がないが、彼が徹底して、戦後平和民主主義を信じている果ての言説なら、頭を垂れるばかりだ。イラク報道の最中に『写真記録パレスチナ2巻』を含んで、この本は今年の土門拳賞を受賞したわけだが、一枚の写真でもってどこまで、われわれの心に届かせる事が可能か、その課題の行く末はこれからも続くであろう。(後略)ーbk1拙レビュー2003年4/13よりー

  • pipi姫さんの“よしなしごと”で、戦争報道写真雑誌ディズ・ジャパン に関する長文のコメントから、佐世保事件に繋がる力作のコラムが更新されたので、それを紹介する前口上として、ぼくの評判が悪かったレビューを紹介してみました。口直しに読んでください。⇒pipi姫さんのコラム 『「目をそむけてはならない残虐」と向き合う』です。
  • 武田徹さんの6/9の日記で、アップした学生相手に喋った内容もそんなジャーナリストの悩みである。一部引用します。

フリーランス・ジャーナリストは、うまくやれば自分の仕事や人生を、自分で設計できるいい職業だから、もしなりたかったらおそれずにぜひ挑戦してほしいといいつつ、ひとつだけ辛さも述べた。隔靴掻痒感だ。言論を通じて社会を変えようとしても、所詮は間接的な作業に過ぎない。権力を斬りつけるのにペンは剣よりも具体的な力を持っていない。結果として自分の力になさに身を焦がすような悔しさを覚え、激しい嫌悪感に苛まれることも多い。いい仕事をしようとすればするほど、社会を少しでも自分のよかれと信じる方向に変えてゆこうと考えれば考えるほど、そんなもどかしさ、隔靴掻痒感にさいなまれる。そして、そうした間接的な作業ではなく、自分の手の届く範囲で何か確実にしたいと願うようになる。たとえば橋田信介さんがイラクの失明した子供を助けようとしたのはそんな気持ちからではなかったのか。自分も正直な話として、将来的には障害者福祉とか海外でのボランティア活動などの仕事に、自分の身をもって臨みたい気持ちはあると結ぶ。というわけで、最後になってジャーナリズムの仕事のネガティブな面を強調してしまって、果たしてそれで講義の目的にふさわしかったのかと後で疑問に感じて、言ってしまったことを後悔したのだが、隔靴掻痒感はジャーナリズムのリアリティではあると思う。ジャーナリズムは社会の木鐸だなんてふんぞりかえっていられる方が無神経すぎる。無力感にさいなまれるのがまともな感性なのだ。そしてその無力感の中で、しかし一抹の希望を捨てないこともジャーナリストに必要な資質なのだろう。橋田さんだってジャーナリズムをやめようとはしなかったし、ぼくも、もっと具体的な活動にシフトすることはあっても、その一方で細々とでもジャーナリズムを続けていきたい気持ちがある。そう思わせるのがジャーナリズムだというのもまたそのリアリティなのだ。この最後のところが伝わっていればいいのだけれど。