山田風太郎/戦後は余禄であったと、くノ一忍法

人間臨終図巻〈1〉 (徳間文庫)あと千回の晩飯 (朝日文庫)戦中派天才老人・山田風太郎 (ちくま文庫)戦中派不戦日記 (講談社文庫)
昭和19年、田中小実昌は甲種合格で徴兵され、山田風太郎は肋膜炎と診断されで徴兵を免れる。二人とも、戦中を生き残った運の良さがあったのか、それとも、逞しさがあったのか、多分、変幻自在な弱さ、柔軟さがあったのであろう、“くノ一忍法”の風太郎はフーテンコミさんと違って、戦場に行かないで、東京医学専門学校へ入学する。そして、『戦中派不戦日記』(講談社文庫)という貴重な記録文学を後世に残してくれたわけである。田中小実昌という作家が保坂和志によって『生きる歓び』で見事に作品化されたが、山田風太郎関川夏央によって『戦中派天才老人山田風太郎』という立派なドキュメントが上梓された。ふたりの文壇とは関係ないところでの無頼ぶり、奇癖など、天才老人として遇して間違いないと思うが、物語、エンターティメント小説家として評価するなら、文句なく山田風太郎に軍配が上がるでしょう。探偵もの、忍者もの、明治もの、奇想、妖説、から、晩年の死を冷眼視して、『コレデオシマイ』、『死言状』などは、徹底した自己相対化、世界相対化の哄笑であろう。彼は物語戯作者の眼で、戦後をやり過ごしたが、昭和20年8月16日の日記には激しい怒りが刻まれている。

[……]/ここに於いて僕は、大きな深い悲しみに打たれずにはいられない。今のところその目的は、ただ敵に対する報復の念のみであるからである。が……日本の再興は、もういちど行うべき「悪戦」の後であるにしてもこの一念以外に、いまは何も考えられない。/甘い、感傷的な、理想的な思考はみずから抑えよう。そしてこの一念のみを深く沈殿させよう。敵が日本に対して苛烈な政策をとることをむしろ歓迎する。敵が寛大に日本を遇し、平和的に腐敗させかかって来る政策を何よりも怖れる。/戦いは終わった。が、この一日の思いを永遠に銘記せよ!

戦後の風太郎らしからぬ気負いである。コミさんは、大陸でモタモタして病に倒れ、同じ傷病兵が蚊帳越しに、ハエが手を合わせるように合掌して何度も何度も、こっくりして、敗戦を知ったと、確か自伝には書いたはずですが、彼には敗戦による気負いも、何にもなかったような気がする。コミさんには、エリート意識の欠片もなかったが、山田風太郎には良くも悪くもエリート意識は強烈にあったと思う。そうだからこそ、戦中であっても、かような日記を書くことが出来たのだ。しかし、自伝はリアルタイムで書かれた日記とは全然、違うものであろう、コミさんの裡に刻まれ、書かれなかった日記は検証のしようがない。1945年8月15日以降、僕の人生は『ぜんぶ余禄』(角川春樹事務所)だと言う風太郎のアフォリズムは素直に首肯しないほうが良い。
♪『戦争と日本人』
♪『山田風太郎書誌』