大西巨人/まだ、まだ、現役です

◆『神聖喜劇全五巻』(光文社文庫)を読んでいないのに巨人について語るのは不遜であるかもしれない。1919年生まれなので、9/8に物故した水上勉さんと同年輩なのか、長編小説『深淵 上・下』を読了しました。批評を前提に置かないで、申すなら、楽しく拝読出来ました。ただ、若い人、小説読みにオススメ出来るかとなると、自信がない。
◆「冤罪・誤判」の二つの事件を通して、逆行性記憶喪失症に罹った主人公麻田布満(1985年7月〜1997年4月の記憶喪失期間では秋山信馬)のミステリーな物語なのですが、古今東西の名作が色々と引用紹介され、又、その本そのものが、それぞれに重要な小道具として物語の進行に利用される。大体、主人公、ヒロインふたりとも、カフカの『城』の冒頭をすらすらと暗誦するし、睦言として英語の原詩が暗唱されるし、主人公が重要な決断をするときの思考過程を本文中で整理整頓して、レジュメ風に登場人物それぞれの立ち位置を明確にしめして、隙のない分析描写をしてみせたりする。だから、事が成った小説を読んだというより、その前段階の作者の骨組み構成を提供されて、後は個々読者の想像力で勝手に読んでくださいと言われているような気がしたのは、穿ち過ぎであろうか、もし、書評小説という分野があるなら、そのような括りが出来るかもしれない。
堀江敏幸の小説などは、原著、原作にあたって、読んでみたくなるような引用、紹介をしているが、人物、風景描写のデテールは詳細、繊細で本文中に自然に溶け込んで違和感がないし、もろにエンターティメントとして、若い人たちに古典、名作を読んでもらいたいとの確信犯的な願いで、書かれたのは久世光彦の『卑弥呼』(新潮文庫)であろう。マジな恋愛小説ですが、ここでは、メイク・ラブの小道具として名作の一節が不能治癒の奇跡を生む。◆なにやら、この戦後文学の系譜をひく意欲作を、そんな連想で読んでみましたが、大西老人はカッカッと哄笑して許してくれると思います。しかし、本文中で文芸評論までやってしまうのだから、まいります。その衒学さが嫌だという読者がいるかもしれない。現役の日本の作家では保坂和志の『<私>という演算』、『もうひとつの季節』(中公文庫)が取り上げられている。ミステリアスな「論文小説」と言ってもいいかな、本書は好き嫌いが両極端に出てしまうと思います。そんなところで、オススメを躊躇するのですが、小説より人文、社会科学書が読んで面白いと言う人にはオススメします。今度はオウムを題材にした小説に取り組んでいる。恐るべき人ですねぇ…。