ブルース・エット

村上春樹の新刊『アフターダーク』が届きました。ありがとうございます。さて読むためのウオーミング・アップで、名曲“ファイヴ・スポット・アフター・ダーク”が収録されている名盤『ブルース・エット』のカーティス・フラーをエントリーしました。
昭和30年代の阪急東通りである。そこ、ジャズ喫茶「チェック」は、

60代の初めには、ジャズに夢中になった。この頃、アメリカのモダンジャズが日本にも多く入ってきて、1962年、大阪の梅田にも「チェック」というジャズ専門の喫茶店ができた。そこでは具体美術協会の向井修二の手によって、壁や天井いっぱいに記号や数字が描き込まれたり、ルチオ・フォンタナが描いた鋭い抽象画がまじったりして、小さな空間が時代の熱気に溢れていた。たまたまある日、セロニアス・モンクが座っているのを見たことがあった。(後略)− 雑誌太陽“1995年、10/12号”安藤忠雄「永遠の挑戦者」−より

そこで日々流れていたのが、今では文句なく名盤の一枚ですが、「ブルース・エット」でした。ぼくが始めて購入したアルバムでもあります。「チェック」は阪急東通りの路地裏にあり、パチンコ屋の裏側にあった。多分、安藤さんはニ階に座っていたと思うが、ぼくは柄の良くない連中が集まる三階に通っていた。珈琲代は百円で、近くの中華料理屋のチャーハン、ラーメンは五十円だった。千円もあれば、一日が贅沢な宴となり、仲間たちと盛り上がった。そして、60年代後半になると、まだ、高校生だった 「杉本エマ」が出入りし始め、その美少女ぶりに目を瞠ったが、文字通りシンデレラ・ストーリーを実践して、関西テレビ版(藤本義一)の=PM11=のカバーガールに選らばれ、あ!という間に東京に進出して、確か大橋巨泉のひきで、全国区になり、70年代の女性誌は各誌とも、エマの表紙写真で飾られた。ちなみに、曽根崎新地、お初天神近くの路地裏に「ファイヴ・スポット」というジャズ喫茶もありました。『アフターダーク』は、今、トマス・ピンチョンを読んでいるので(大長編が多いので大変)、それを読み終わったら、取りかかろうかと思います。添付の写真集は大倉舜二の『emma』で、古書価では九千円ですね。1971年刊行です。