いのち/隔離

 多動症?的な気味のある僕がそれでも、PCを購入してから、二年半のネット生活でbk1にレビュー投稿、今は閉鎖中である“武田徹BBS”にカキコで書き込みの初体験をして、森岡正博生命学HP(ここも、もうカキコしていませんが…)、ぴぴさんの“吟遊旅人”、そして、保坂和志HPの“保板”の書き込みと、多動的なカキコをしながら、それでも見えてくる僕なりのコンテキストは“安全と自由”なのであろう。
 98年に入院生活を送って、その病院での至りつくせりの監視技術、先端医療技術の恩恵を知り、例えば、“粥川準二さん”が、“武田徹さん”とネット上で、往復カキコをした、とてもシリアスなテーマーであるが、粥川さんは、そのような技術が“気持ち悪さ”、“何かが失われるような気がする”っていう論理的でない不快感を感じるらしい。武田さんは、そうならば、それを言葉にしなければ、ならないって応酬しているわけです。この点はぼくも意識化しているし、方々に書き散らしていることどもも、読書履歴も概ね、そのことを巡っての行ったり来たりだと思う。
 キーワードは“匿名の自由”、“自己家畜化”、“ホモ・サケル”、“暴力”、“戦争とテロ”、“安心ファシズム”、“排除の論理”、“自由からの逃走”、“恥”、“脳とクオリア”“ユートピアアナキズム”など、それにリンクして、徘徊しているわけです。
 実際、僕の病院生活は不快ではなかった。その体験から、考え始めたと思う。でも、粥川さん達に説得出来る言葉なり理論武装は、ほど、遠い。恐らく、ぼくの立ち位置は、武田さんが、『核論』『「隔離」という病』での、出来うる限り、科学技術を肯定して、引っ張って、リリースポイントを長くして、キャッチャーミット目がけて投球するが、赤ヘル時代、日本一になった江夏豊の最後のとこで、スクイズを外した一球(直感・野蛮)に象徴されるような科学技術でない言葉を理論化してみたいということなんでしょう。その江夏の自信を言語化できれば、粥川さんもその不快感の正体を言語化出来るのでしょう。