井上ひさし/資料魔・戯作者

もうひとつのブログの流れのカキコなのですが、又、トラブッたのか、アップ出来ないので、こちらでやむなく…。『珈琲時光』の続きですが、浅野クンが演じた古書店主に何か必要以上に感情移入してしまったことが、この映画を僕的に膨らませたかもしれない。専門分野を持っている古本屋ならば、例えば、司馬遼太郎井上ひさし山崎豊子松本清張など、門外漢のぼくにでも、資料集めにまつわるエピソードは見聞きしますが、そう、宮崎駿のチームがアニメ『平成狸合戦ぽんぽこ』の資料集めに奔走したら、中々資料が集まらない。オカシイと思ったら、かって井上ひさしが『腹鼓記』を上梓した時、狸をキーワードに資料を掻き集めた。本が出来上がったら、又、古本市場に流れるという流通パターンが通常ですが、井上ひさし山形県川西町にある文化運動を町ぐるみ積極的に推進している図書館“遅筆堂文庫”に資料を寄贈しており、結局、宮崎駿のスタッフは川西町に暫く泊り込んで、図書館通いを行う。
こんな大掛かりな話でなく、一冊の本がお客様にとっていかに重要かというのを新刊本屋でも見聞きしました。ぼくいた本屋では客注セクションがあって、一時期、担当の女の子は感情移入し易い子であったが、お客様が欲しい本をやっと手に入れたときの嬉しそうな顔を見て、一緒に喜び泣きをしているのに遭遇したことがある。だから、本を媒体として、店員とお客様が、友達になったり、恋人同士なったり、結婚したり、そんな流れが違和感なくありました。『珈琲時光』を観て苦笑い、ほくそ笑んでしまったのは、そんなこともあったからです。本って一緒に秘密を共有するみたいな、この映画で陽子と肇が本からもれてゆく諸々によって秘密を表に引き出される読解をしてもよいのではないか。
本っていうのは少量多品種で、百万点近くあると想像してもらいたいのですが、中々そんな風には思われないみたい。先日もブックオフで、お客さんが新刊本屋のノリで店員に問うている。どうやら夏休みの子供の宿題のテキストを探しているらしくて、こんなに本が一杯あるのだから、目的の本がないのがおかしいっと、ぶつぶつ言っているのです。新中古書店の一番の問題は今までは、狸本のように特殊専門の本が古本市に流れて、必要な人の目に最終的に行き着く流通経路が作動していたが、新中古書店の場合は古本市に流さないで、古すぎる、汚れているという評価で、ゴミ処分してしまう危険が大であることでしょう。学校教育の必修で、自分で“調べる”スキルを高めるための科目があっても良いと思う。浅野クンのマニアックぶりは好感が持てました。まあ、この程度の電車マニアぶりは許容範囲でしょうね、陽子の視線から逸脱していないし、彼は電車の音、本、街の風景を背景に陽子を見続ける。