「自由からの逃走」から逃走

《…対話は答えが出る前にしか出来ない。答えが出てしまったあとは、同意の強制こそあれ、対話などありえないのだ。…》
武田徹さんのブログ10/6♪の柏崎での『原子力市民の会』講演会で、気持ちよくボコボコにされましたと、武田さんらしいコメントを書いている。冒頭にあげた武田さんのフレーズは、ぼくも肝に銘じているのですが、中々難しい。

恐らく信念まで凝固した答えを用意(表向きは仮説であっても)しておかないと、耐え切れない部分はあると思う。勿論、勝ち負けが問題ではなくて、説得力の占める理論以前の情の影響力は凄い。高木仁三郎をめぐっての質疑応答も、体験として高木さんの人間に触れたそれこそ、<いのち>の手触りからくる発言は武田さんをたじたじさせたと想像出来る。核分裂生成物の再生利用の思考実験にしたところで、推進派、反対派が、そんな思考実験をするにしても、不遜にも武田さんが、“テロリストによる放射性兵器”の利用方法を紹介したことに、共通の敵を見出したとばかり、両派は共感して、武田さんはぼこぼこにされたらしい。

答え、ポジションを保留にしたまま、発言しないと、対話が成立しないことは、その通りであろう。でも、ハーバーマスにしたところで、西欧型民主主義を結局、相対化出来なかった。コソボの解決は同意の強制で、結局、空爆という暴力が露呈する。大澤真幸は、このあたりの思考実験として、より公平の原則として“くじ引き”という方法をマジに考えているみたいですが、ブッシュとフセインにジャンケンで決着をつけさせることは、一笑に付されるであろう。

中学生の折、ぼくは柔道の部活をやっており、まだ、体重制とか、国際ルールのない東京オリンピック以前の柔道でしたが、四十年以上の前なので厳密にはうろ覚えですが、判定なんてなかった。“一本勝ちか、ジャンケン”で、非常に納得のゆく公平なものでした。相撲も、八百長問題は別にして、非常に公平で、分かりやすいですよね。オリンピック競技の判定制は西欧型民主主義の政治性を学習させてくれます。おしょうさんところの“方丈”で、<歴史>、<いのち>を巡っての対話が始まっています。それは、<時間と空間>の問題に連結するのだろうとの予感がありますが、ネットで、かようなことが、継続するためには、冒頭の武田さんのフレーズが凄く大事だなぁ…と、改めて思います。ぼくはかって、生命学の森岡正博さんのBBSにカキコをよくしていましたが、熱くなる議論は禁じられていました。ただ、対話と議論はどう違うのか、その説明はぼくには出来ないし、森岡さんも説明しないでしょう。ただ、ぼくの胸の裡とだけ森岡さんは言ってしまう。どうやら基本は一方通行の情報提供だけみたい。そんなこんなで、ネットで対話(議論)を通して、少しでも学習したいと願っているぼくは御邪魔64(虫)で、64(無視)の関係性を構築して、もはやBBSに参加していませんが、何か、もうひとつ、納得のいかないところがありました。おしょうさんところは、そんな恣意的な禁じ手がなく、風通しの良い“方丈”を目指している”らしいので、楽しみです 。
“方丈”行きです。