エーリッヒ・フロム

フロムの『自由からの逃走』(東京創元新社)が、本棚からなくなっている。本書は勉強をしなかった学生時代に唯一、真面目に読了した社会科学書の一冊です。それから、結構、折に触れ読んでいたのですが、色褪せないどころか、いつのまにか四十年前より説得力をもって、本書が訴えたがっているものの正体が鮮明に見え始めたような気がする。それで、知り合った若者に、本書をススメたり、読んでみなっと、あげたりして、又、本棚から消えてしまっているのです。『葉っぱがアフォード・阿呆ダンス』ブログで“安全と自由”のカタゴリーに28点もエントリーされている。『葉っぱが〜』ブログの主調音は『自由からの逃走』を基底に置いた“安全と自由”なのですが、斎藤貴男著『安心のファシズム』(岩波新書)から孫引用で自民党憲法調査会の議論から伊藤信太郎衆議院議員の発言をカキコします。

それから自由という点について申し上げれば、大きく分ければ何々「から」の自由と、何々「へ」の自由があると思う。エーリッヒ・フロム(主著『自由からの逃走』)ではないが、多くの国民は自由を求めているようでいながら、実は自由から逃れたいと密かに思っている。この国の国民はこういうふうにものを考えれば幸せになれるんですよということをおおまかな国のなかで規定してほしいというのは、潜在的にマジョリティーの国民が持っている願望ではないか。

いや、驚きました。フロムのコンテクストをかように正反対に偏読して、国民の多数は、自己判断を要請される“自由”何て、欲しくもないし、そんな金にもならないことで、悩みたくないと、クソ・リアリズムの言説である。これにまつわる発言要旨は自民党のHPに開示されているらしい。発言者は自信とコンセンサスを得られると思っているのでしょう。それが、あながち的外れでないので、怖い。いつの間にか、表も裏も、ぼくのような人間はマイノリティーになっているのであろうか、過去のこれにまつわるぼくのエントリーをチェックしたくなりました。より弱いものをいじめてゆく排除の論理で、より大きなものに自由を売り渡して、寄り添うことが、生きることなら、つまんないなぁ…。

一世紀前との違いは他にもあった。かっての帝国は、帝国が帝国であるために必要な国民の統合、総動員体制を、国内における福祉国家化で完成させようとした。「社会帝国主義」などとも呼ばれる所以である。/新自由主義に貫かれた現代の帝国に〓福祉〓の二文字は存在しない。代わりに採られた国民統合のための方法論は、ハイテクノロジーという凶器を得て、むしろ剥き出しの暴力性を帯びた。/キーワードは「恐怖」、そして「安心」である。―斎藤貴男著『安心のファシズム』p165より―

安心のファシズム―支配されたがる人びと (岩波新書)機会不平等 (文春文庫)カルト資本主義 (文春文庫)絶望禁止!希望の仕事論 (平凡社新書)