柄谷行人

リスペクトする某作家に柄谷行人のいう「文学」は、「近代自我文学」のことであって、だから、相手にしない方がいいし、読むだけ時間の無駄です。 って言われて、うん〜と、考え込んでしまいました。、それらは臨床社会学的、文芸評論的、歴史学的な価値をもつが、知的、芸術的観点からは、一行の例外もなくゴミ屑であり、既に哲学という「意識」内部で分節されたことの、大衆版、発展途上国版だ。「それら」とは、「私とは何か」を問題にする文学のことです。柄谷さんは文芸評論家にすぎないわけと、言われ、納得してしまったのです。恐らく「近代文学」は豊饒なものであって、「近代自我文学」との峻別が僕の中でなされていなくて、味噌も糞も一緒くたの感性の貧しさを突かれた心地して冷や汗をかきました。そうしたら、ダメ押しみたいに、これまた、ぼくがリスペクトする哲学者内田樹がマイブログに柄谷行人の胡散臭さを裸にするカキコをしている。欲望をキーワードに柄谷行人の「不可視のわからなささ」が、実に資本主義システムの恩恵をもっとも受ける「ブランド賢者」の振る舞いに見事に叶っているということなのでしょう。まるで、何故、馬鹿な男ども(勿論、僕も含まれる)は「運命の女」に惚れるのか、賢い女達は、どうして「運命の男」に惚れて、その不思議を説明できず、まあ、「イケメン」ということでごまかすのか、そのどうしようもない馬鹿な人間の欲望の実態を身も蓋もなく内田さんに言われてしまった、そんな読後感です。かって、ぼくが一番、柄谷行人に感応したのは、『NAM原理』で、この柄谷のスピークアウトするNAMA運動に興味をもったのですが、、これは社会運動でなく、何らかのパーフォーマンスで思想のイベント興行なのか、このアソシエーションを覗いてみたいのに、その当時、パソコンがない、どうも、これが致命的なものらしいと、何とか、パソコンを購入して憶え始め利用できるようになったときは、この運動の話はあまり聞かなくなってしまった。去年、もう、解散していたんだ。その実態を覗いてみたかったのに残念です。何か個人全集『定本柄谷行人 全五巻』という新しい玩具が出来て、そちらにかかりっきりなのでしょうか、終わったことは終わったこと、柄谷さんは悩まない人なのですか、そんなことはない、ものすごく悩んでいるのでしょう。でも、自分の関わった運動の失敗を悩まないで、それ以上に悩むことがあるのかと、不思議でならない。ぼくが聞きたい悩み、哲学は、どうしてその実践が不可能だったのか、内田樹の言及に柄谷行人は何らかの形で答えるべきでしょうね。
『賢者は良賣に似たりー内田樹10/16』http://blog.tatsuru.com/
流通業界に興味のあるぼくは柄谷さんの地域通貨、くじ引きなどの、NAM原理は資本主義システムを乗り越える予感に満ちたものでしたが、一体、なんであったのか、ひとつの思考実験として、ダイエーの再生を柄谷さんに任せたら、その本気度がわかるなと、無責任なことを考えました。でも、少なくとも、中内は流通革命を実践し、全国津々浦々、店舗を構え、地域経済に密着して、生活向上をコンセプトに国家のルールとは別のところで、システムを構築していたことは間違いない。だからこそ、いまさらながら、ダイエー問題は政治問題となり、資本主義システムを根底から揺るがす奇妙なことになったのでしょう。僕たちの税金がダイエー再生に当てられるわけですから、資本主義システムを逸脱しているわけ。知らぬ間に大きくなり過ぎて、つぶせぬことが不可能になってしまった。生協運動、ダイエー戦略に通底するものが、僕なりに反応したから、柄谷本で『倫理21』を二回しか読んでいなくて、彼の「ファンクラブ」の一員になる資格も知性もないのに、NAM運動には興味をもったのです。国が口も金も出さないで、柄谷さんのアソシエーションにダイエーを丸投げしたらと、そんな思考実験をしたのでした。
『松岡正剛の「日本精神分析」批評』