五木寛之

『流れゆく日々(抄)』は日刊ゲンダイに連載20年、ほぼ、日々更新してというと、ブログみたいですが、約5000件もアップした勘定になる。勿論、当時はPCなんてなく、作家は根気よく作業を続けたのです。確か、五木さんは、ぼくは後世に残るような作物を創作するつもりはなくて、雑誌の紙葉と共に朽ち果てても本望だみたいなことをどこかで書いていたと思う。蓮如を書き、瀬戸内寂聴(1922年生れ)と並んで、説教語りの両横綱みたいな昨今で、百寺巡礼を監修など、仏教を語って倦むことがない、かっての“流れ、消えていっても仕方がない”、そんな自嘲と居直りが入り混じった流行作家であり続けた屈折が、年経て違った感慨を持つに至ったかどうか、うかがい知れないが、少なくとも、1975年10月、出版社が夕刊紙を創刊するという冒険の目玉ライターとして、五木寛之(1932年生れ)はうってつけであったでしょう。
そのライブ・クロニクルを収載したのが、この二冊『流れゆく日々』(講談社)で「1975〜1987年」と「1988〜1995年」とに分冊されている。当時、日刊ゲンダイは結構、読んでいた僕にとって、巻末の索引を見るだけでも様々な記憶が掘り出される。現在、この二冊は絶版みたいですが、図書館のリサイクル棚から貰ってきたのです。雑誌のデーターバンクとしては大宅壮一文庫がありますが、ネットのテキストの信頼性と雑誌であっても、又は、『日刊ゲンダイ』のようなマスの活字媒体と比較すると、信頼度の濃淡が微妙に違ってくるのは致し方ないことでしょう。信頼度の担保は五木寛之という作家の感性でそのことを念頭に置いて、五木寛之が何を「記憶」しようとしていたのか、時代背景を検証しながら、考現学の一資料として読んでもいいし、新聞の縮刷版として読んでもいいし、古い雑誌を気ままに捲るルーズさで読んでも勿論、楽しめる。
ただ、両方合わせて、900頁ぐらいの本なので、通読するのには大変ですが、索引の人名録で、「あ!あの人だ…」と、忘れかけた人を検索するのに調法です。あの二十年で消えていった人でも、ライブで作家がどのような感性で言及したか、そのことを読むことで、僕自身も軌道修正された軌跡を、少しでも知ることになり、二十年の物差は、結構、見たくないものを見させてくれる鏡にもなる。この二十年は僕にとっても中心に位置する30、40代であったのだから、まさか、かような本がリサイクル棚にあるとは思いませんでした。
台風23号が大きな爪痕を残したが、舞鶴市で水没したバスの乗客たちは、五木寛之と同年代位で、ぼくよりちょいと年上の戦前生れの先輩たちですが、テレビで見る限り、その手際の良い連携プレーに感心する。一緒に歌を歌い元気を出し合いながら、全員救助されたのですが、ぼくや団塊の世代とは違う生を肯定する健康な襟の正しさがあるみたいです。それを野坂昭如(1930年生れ)風に“戦後闇市逃亡派”と言ってもいいが、五木寛之は“戦後闇市元気派”ですね。
『蒼ざめた馬を見よ』の直木賞受賞作は勿論、エッセイ、人生論、小説以外のものでも、その根底に流れているのは、俗に寄り添う青年の気風であり、文学少年、少女、青年達が決して、太宰治三島由紀夫中上健次を語っても、少なくとも野坂昭如に文学性は認めても、五木を文学史上の作家と認めようとはしない不思議さは、まるで、アイドル歌手をアーティストとし認めないのと同じ事情を感じる。色川武大が阿佐田哲哉を捨てて、脱皮した道行きとは、逆コースで、益々大衆性を深めていった気がする。五木寛之モードで無骨に突き進んだ青年五木寛之はイケメンのアイドル性を留めているその強かさを評価すべきなんでしょう。古希を迎えたのに元気に未来を見据えた青年なのです。昔の名前でなく、今の名前なのです、今に拘泥する作家にとって、この『流れる日々』は五木寛之らしい本だと思います。蓮如以降は読んでいないので、ぼくの口舌はあんまり説得力がありませんが…。