エマニュエル・レヴィナス

 コミュニケーションの問題で、話し合えばわかるっていう思い込みがあります。恐らく浅い「ヒューマニズム」の理解はある文明の度量衡を自明の理として了解している。しかし、内田樹の言うレヴィナスの「他者」定義は、他者とは「わたしと度量衡を共有しないもの」なのです。「私は文明人で、おまえは野蛮人だ」というときには階層がある。切れ目がある。切れ目(境界線)があることはつながっている。境界線というのは、境界を接しているもののあいだにしか成立しない。「ドイツとフランスとの間の境界線」は存在するけど、「日本とフランスとの間の国境」というものはない。レヴィナスは他者と私の間には切れ目がないと言っているのです。切れ目がないからつながっていない。他者と私はつながっていない。つながっていないから、他者なのです。その典型は死者なのです。四万年前にネアンデルタール人が「死の儀礼」を持ったかどうかわからぬが、少なくとも人間の定義は「葬礼をするもの」とも言える。それは同時に、つながっていない他者の発見でもあったわけです。

/他者とは死者のことです。/人間は死んだ者とさえも語り合うことができます。それは言語の準位ではないし、身体感覚の準位でもない。もうひとつさらに深いところにある回路で起きている出来事です―内田樹著『死と身体』より―

 問題は「ことばの通じない人間とのコミュニケーション」なのです。そのためには「わたしはここにいて、あなたの声を聞いている」ということだけでも伝わればいい。それが出来ればなんとかなる。内田さんはこのシーンを磁場といい、本書のサブタイトルは“コミュニケーションの磁場”なのです。ことばよりも「ひとつ手前」のレベルにある。
 そして、去年、大阪のジュンク堂でのトークイベントでの不思議体験を書いている。多分、11/8だと思う。実は京都の大垣書店森岡正博の『無痛文明論』講演会(夜)があり、同日、内田さんのトーク(昼)もあったのです。大阪、京都をハシゴして、電車の中を走れば(そんなことはしません)、なんとか、両方とも聴講できたのですが、ちゅうこさんや、ぴぴさんたちも参加した森岡正博講演会だけになりました。返す返すも残念でした。

前におもしろい経験をしたことがあります。大阪のジュンク堂という書店で、講演をしたのですが、そのときも今日と同じで、その場の思いつきを次々としゃべっていました。そのとき、「決めのフレーズ」をわたしが言おうと思ったときに、熱心な聴衆たちがいっせいにペンをつかんでメモをとりはじめるのです。/わたしがかっこいい「決めのフレーズ」を言い終わったあとに、「ああ、なかなかいいことを言ったなあ、じゃあメモしておこう」というのならばわかるのです。でも、そうじゃない。わたしがまだそのフレーズを言い終わらないうちに、あちこちでほとんど同時に手が動きはじめる。わたしが何を言うのかまだわからない段階で、メモが始まる。/話の内容を理解してから、これはおもしろいから書きとめておこうというような理知的な行為じゃありませんね、これは。わたしがフレーズを語り終えて、「……だと思います、マル」と区切るより先に、わたしのなかで何かが活発に運動しはじめた気配を察知している。しゃべっているわたし自身が「あ、なんだかこのフレーズはかっこよく決まりそうだな」と思って、ちょっと高揚してくると、その高揚感に反応している。

 いやあ、無理しても聴くべきでしたね。その高揚感のままで、「無痛文明論」を聞くと違った風に聴こえたかもしれない。あれから、もう一年なんだ、ブログなんていうのもやっていなかった。