新札の一葉は哀しいね

五千円新札の肖像が“お金が欲しくて堪らなかった”、内田百ケン先生も顔負けの堂々たる借金を重ねて、家族を養い書き続けた誇り高い夭逝の一葉とは、皮肉と言えば皮肉である。でも、女性の肖像がお札になったのは初めて。そのハレの栄誉を受けた基準が、もうひとつわからないが、最近、読んだ田中優子樋口一葉は女同士の物の怪が共振したかのような、面白さであった。24歳で旅立って、たったの一年半余で、名作を生み出した力技は凝縮された時であったのであろう。一年で永遠を生きることもありうると、恥かしげもなく、言ってみたい気がする。その一年半がぼくの60年よりは長くて、重みのあるものに間違いない。
 そんな一葉に惚れた田中優子が、その想い入れと深読みで、樋口一葉を生々しく浮かび上がらせる。文藝評論というより、一葉の作品に仮託した、もうひとつの、今生きている<極私>の田中優子の生き様が見えてくる気がする。“女が女に惚れる”倒錯したエロスさえ感じた。
 明治文学を「江戸から読む」というスタンスは学者としての変らないマッピングですが、近世文学と近代文学の境界線に立ち位置を構えて“エクチュール”した一葉のあまりに短い生は、優子さんならずとも、残念でならない。 
 本書の結語は、やるせなく、せつないけれど、一葉の“厭やだ”と同時に、優子さんの“嫌やだ”が重なって聞えるし、ぼく自身、岡本かの子の『生々流転』のお蝶さんを想い出す。

ひと匙、食べては ちゝため /ふた匙、食べては はゝのため

お蝶さんは、“いやだ!”と言って、男たちも、都も振り捨てて、おんな乞食になりおおせるが、そこも又、憂世の暮らしと、男と女の関係が入り組んで、何ら世間と変りやしない。そして、最後にお蝶さんは女船乗りになる。「海にはお墓なんかないんだから」、樋口一葉は“墓場のない世界に生きている”のでしょう。

 ……そしてその叫びから、自分を見ている。自分の位置をはかり、自分の輪郭を確かめる。厭やだ、という叫びが放蕩となり、布団屋の源七も、たばこ屋の録の助も、山村の石之助も、身を滅ぼしてゆく。滅びながら、自分を作っている。滅びながら、自分を見つめている。落ちながら、生きている。(中略)/襤褸をまとい、もう何も遠慮することなく、他の誰のためでもなく、世間から解き放たれてふらふらと、わがままで、いやなものはいやと言い、花や月と戯れる一葉が見える。女の行く末は、出世であろうか? 女の行く末は、解放であろうか? 女の行く末は、社会参加であろうか? そのどれもあってよいが、やはり女の行く末は落ちることである、と言い放って、一葉が大笑いしている。―樋口一葉「いやだ!」と云ふ(集英社新書 )―より

 別に女でなくとも、男であろうが、性差を問わず、“無頼である”ことは作家であることの拠所ではあるだろうか、何か不遜のような気恥ずかしさがある。でも、そう書いてしまったのは、一葉を隠れ蓑にした田中優子の窺い知れない想いかもしれない。本書の面白さは、そんな田中優子の破綻さだと思う。学者の文章ではないですね。そこが面白い。
『bk1書籍データ』