悩む

[…]行政「共同体」、無痛文明「共同体」のための安全安心をこえて、「公共社会」のための安全安心を実現できないかとも望むけれど、自分にそんな力があるのだろうか。―武田徹ブログ11/1より―

武田徹さんのブログも日参しているのですが、『現代思想』というタイトルで、こんな問いを発している。今日、観た映画でハンセン病棟での医学生ゲバラに触れている。安全安心の問題は隔離、監視、排除、自由、尊厳と、ジャンルを越境して、人間を全体として捉える哲学を骨格とした科学技術の接木が欠かせないという総論は判る。でも、その前提となる人間観が揺らいでいるのだろうか、ぼくはどちらかと言えば、内田さんの身体観を基本に置いた人間観をイメージしている。脳ではない。身体は微妙に、ダイナミックに変化する。脳の生み出す物語なり思想は、文節化され、固まってしまう。養老さんはそれを「バカの壁」と言っているのだが、養老さんも身体の人だと思う。脳化社会が嫌だと、言っているのです。身体の悲鳴を聴く耳を持ちたいものです。まずはそこから出発する哲学でないと、生きたものにならないような気がします。
 参照:『百貨店(養老さん)とセレクトショップ(茂木さん)』っていう趣旨で、ソネアキラさんが、このエントリーに反応して“うたかたの日々”にアップしています。コメント欄では長文なのです。どうぞ、読んで下さい。下記のコメントの流れになっています。