民主主義を超えて/ブッシュ

昨日、おしょうさんの山寺に書き込んだことなのですが、ブッシュが大統領に再選されたので、ここにコピペします。

内田樹の『死と身体』(医学書院)なのですが、彼は哲学者としての自分と、武道家としての振る舞いとは不即不離で、そこから世界解釈をしているわけです。その立ち位置は「死んだ後の自分」を「現在」に想定しているわけです。例えば、現在只今の危機を解決するやりかたに、痛みをなだめる方法とも言ってもいいかもしれない「トラウマ」という物語を過去に想定するやり方もあります。そんなやり方はダメだと言っているのです。挌闘家の武蔵さんは前未来形で動いている。だから、打撃の痛みを軽減出来、勝つことも出来る。その未来形をどこまでも延ばして行くならば、「死んだ後の自分」という<私>が消失する点です。その点を現在に想定するのです。山岡鉄舟は早い段階で、自分の臨終場面とそのときの自分の体験までをもクリアカットでイメージすることが出来たと内田さんは言う。「先をとっている」のです。相手がブッシュであろうが、勝つことが出来る。
 ブッシュの戦略は、資本主義の倫理観であり、それは「死なない自分」を想定したものでしょう。「死なない自分」とは何か、それはフーコーの言う家畜化であり、「死体として生きる」、フィギュア、臓器までも商品化する人間観でしょう。今、流通しているヒューマニズムは「死が隠蔽されたもの」、未来を想定していない。時間とは歪んでいるものです。騙すことが出来る。ブッシュの弱点、資本主義の脆さは、僕たち個々が、「死」という地点から世界を日常生活をデザインすれば、崩れ去ってしまうということです。
 問題はわれわれに、そんな哲学があるか、又は持とうとしているか、
 ブッシュ的土俵の中でヒューマニズムを叫んでも資本主義の大きな土俵=人間は死なない=代替可能=取替え自由であるから、個が文節化されていない=ドルに交換可能の生…、などなど、そんな気持ち良さを拒否できるかということです。
 もし、ブッシュと戦い、勝つつもりなら、「死んだ後の自分」の体感をクリアにイメージするところから、修練する必要がある。まあ、そんなことを内田さんは言っているのですが、