死と死者/父性としての末期の眼

内田樹さんは格闘家(K-1)の武蔵さんに「リアルファイトの場合、相手から強いパンチを受けたときに身体はどう反応するか?」って訊いたら、その答えが「時間をずらして対処します」、う〜ん、すごい答えです。色々の日常生活の場面で、無意識にぼくたちもやっているだろうが、意識していなかった。

時間をずらすというのは、こういうことです。相手からパンチを一発受けたときは、逆に、自分がその後のワン・ツーと二発相手の顔面にクリーンヒットしている状態を思い浮かべて、それを「現在」であると「思い込む」というのです。二発殴ってヒットして相手が倒れている瞬間を「現在」だと思えれば、殴られている「今」は「過去」になりますね。そうすると、自分がどんなパンチを受けて、どこの部位にどういうダメージを受けたのかはよくわかる。けれども、それはすでに「過去の出来事」なので、もうあまりリアリティがない。それほど痛みもない。リアリティのある「現在」は、ワン・ツーが決まって相手がマットに倒れつつあるという「幻想の未来」のほうなのです。まだ起きていない未来がじつは現在であると自分自身を騙す。そういうふうに瞬間的に頭の切り替えをするのです。ー129頁内田樹著「死と身体」よりー

ぼくの友人に喧嘩の強い奴がいた。ギャンブルも自信満々なのです。彼は小説も書いているのですが、必ず、暴力の場面が出てくる。すごくリアリティがあって主人公の強さがひしひしと、伝わる。子連れ狼か、座頭市である。何でかと、彼に質問したら、川端康成の「末期の眼」だと言われた。合気道創始者植芝盛平は『先の先』と言う。

『先の先』で動く人間というのはおそらく相手と違う時間の流れを進んで、先の時間にいっているのです。ですから、絶対に勝つ。絶対に勝つに決まっている。「勝ったり負けたり」するものは武芸とは呼ばれない。武芸は必ず勝つ。構造的に勝つ。[……]武芸の修業がめざしているのは、定量的な身体能力の向上ではなくて、むしろ時間感覚の練磨ではないか、ぼくにはそう思われます。ですから、ひとたび「別の時間流」に乗る技法を身につけた達人は、つねに相手を「絶対的な遅れ」のうちに取り残すことができる。それをして「活殺自在」の境地というのではないでしょうか。ー『死と身体』p132よりー

子連れ狼も市もタイムマシーンに乗っているのでしょう。まあ、大五郎はこの地に残されても、泣かないで「チャン」の闘いぶりを見ることが出来るのは、そのことを熟知しているからでしょう。闘っている場面では、大五郎を捨てている。捨てられても、大五郎は待つ。「チャン」を信じている。父と子の場面に修羅はない。
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