木村幹/上野千鶴子

木村幹の『朝鮮半島をどう見るか』(集英社新書)を読みました。このブログでも御馴染みのぴぴさんが、bk1にレビューアップしているので、“こちら”を参照してもらいたいですが、ステレオタイプの物言いを忌避する振る舞いはその通りだし、その通りであっても、作者自身、ぼくの視点からステレオタイプの物言いに聴こえてしまうところが多分にあった。検証すれば、“民主主義”という言葉さえ、様々な歴史性、イデオロギー性にまみれた典型的なステレオタイプ(概念)であろう。ブッシュも反ブッシュもそれぞれの文脈で民主主義を使用する。ならば、へそ曲がりで、反ブッシュ陣営が自らをファシズムと指呼して、居直るブラックユーモアをもち合わせれば、話が噛み合うかなと思うが、そんな運動は無理でしょう。
 恐らく“民主主義”という言葉が外見上、綺麗な言葉だし誰をも傷つけないし、互いの陣営を守るに適したもので、空に向かって空砲を撃つ。そして、ブッシュ陣営は裏口から実戦部隊を出動させる。ダブルバインドに抗するに自己慰撫的な“民主主義”では、市民から、国民へ、そして国家へとからめとられ、回収される、そんな道行きを『東大で上野千鶴子にケンカを学ぶ』で遙洋子は157頁で言及している。

この上野の位置に対し『フェミニズム純粋主義』(中山道子『論点としての女性と軍隊』)とか、『統治からの逃避』(同)という批判がある。「なに自分だけきれいごと言ってるの、じゃ、どうやって、国家を治めるんだ?」というワケだ。/「じゃ、フェミニズムに国家理論はあるんですか?」の質問に、上野は間髪を入れず答えた。/「フェミニズムに国家理論は必要でしょうか?」と。/言い切ったあと、そこにいる全員を見回す。/「ほっとけ、誰か文句あんのか?」と、私は理解した。/差し出した手をはねのけられ、「で、どうやって、生きていくんだ?」と優しく脅迫する権力に対して、「ほっとけ」は非常に正しい反応だ。目前の選択をしないことは、現実逃避でも理想主義でもない。「選択をしない」という現実主義なのだ。「理論的困難がともなう」(中山)のではなく、「挑戦」の理論だ。/その理論は国家理論のような形をとらない。国家との取り引きを拒否した以上、理論は国家を射程にしない。幻想の共同体に働きかけるのではなく、理論はまず、まだ可視化できずにいる自分の中の、生命が尽きてもなお気づくことのないかもしれない観念に働きかける。敵は自分の中にあり、その変換なくして共同体への派生はない。未知への挑戦にアプリオな(経験前の)理論は必要としない。/上野は言い切る。/ フェミニズムの目的は近代国民国家の乗り越えにこそある(『女性兵士の構築』)/フェミニズムはあなたのやり方への拒否から始まる。これは「純粋主義」でも「共犯嫌悪」(中山)でもない。そんなヤワなものではない。見据えた後の遺棄という冷酷無比な判断である。/すでにある暴力に加担することよりも、すでにあるものそのものを否定する方が、暴力的だ。相手にしない、という暴力もある。/ついでに言えば、「よき市民」の発想こそ、アポステリオリな(経験後の)理論しか必要しない、既存の枠内の保守思想にとどまる「純粋主義」で、そこには挑戦からの「逃避」や、未知の体験への「嫌悪」が見える。つまり反論がそのまま、当事者批判にはねかえる。/なぜ暴力は認めないのか、という批判を受けての上野教授の一言が忘れられない。/「上野は最も暴力的といわれた女ですよ」

東大で上野千鶴子にケンカを学ぶ当事者主権 (岩波新書 新赤版 (860))結婚帝国 女の岐れ道朝鮮半島をどう見るか (集英社新書)ぴぴさんの『結婚帝国〜』『朝鮮半島を〜』