映画でしか語り得ないもの

映画のハシゴをしました。『真珠の耳飾の少女』を千里中央千里セルシーシアター、『春夏秋冬そして春』を梅田のOS劇場で観ました。道中、村上春樹の『アフターダーク』を読みました。

目にしているのは都市の姿だ。/空を高く飛ぶ夜の鳥の目を通して、私たちはその光景を上空からとらえている。

で始まり、ヴィム・ヴェンダースの『ベルリン天使の詩』を思い出してしまった。表題のアフターダークカーティス・フラーの、『ファイブスポットアフターダーク』からチョイスしたものである。これから司法試験の勉強をすると宣言する高橋君はクラリネット奏者として上手いんだけど、何かを本当にクリエイトすることとは全然次元を異にする、才能に見切りをつけて、音楽から法律へと電車を乗り換えるのですが、彼の自己分析と饒舌さは、孫世代なのに、連れ込みホテルの看板がゴダールの映画から、これ又、チョイスしたと思われる『アルファヴィル』だし、高橋君が中国語科専攻の外大生マリに語る諸々は、僕自身が言っても違和感のない、クリシェのように言ってしまう怖れのある苦笑せざるを得ないセリフなのです。だから、読んでいるほどに気恥ずかしくなったところがありました。映画『ベルリン天使の詩』は、オヤジがふたり天使を演じるのですが、こちらの「トウキョウ天使」は、“私たち”は、そんなオヤジの説教節が聴こえそうでした。高橋君でなく、もろに春樹さんと同年代のオヤジを登場させればよかったのに、その辺りにリアリティのなさを感じました。

映画は『真珠の耳飾の少女』が超オススメです。監督はピーター・ウェバーですが撮影監督エドゥアルド・セラの力量が最大限に発揮されたのでしょう。映画でしか表現出来得ないものを映画で語りつくしたということに尽きる。メッセージ性、隠喩を読み解いたり、分析をしたくなる映画ではない。ただ、まるごと受容して、映像の光と影のシャワーを浴びて、初めから最期まで、画面に釘付けになりました。

この世界は小説で言葉で表現できないだろうなと、他のメディア媒体に変換、翻訳出来ない世界だと映画そのものだと思いました。『春夏秋冬そして春』は良質な映画であるが、逆に、メッセージ性、隠喩は到るところにあります。そう、映画でなくとも表現できる世界なのです。般若心経を読むことでも、恐らく、小説なり言葉で表現した方が、この世界を十全に描くことがより可能なような気がしました。別に映画でなくてもよかったのです。

勿論、高橋君やベルリン天使たちのように饒舌ではないが、、ある種の説教節の臭みがあります。だからと言って、ぼくが説教節を嫌っているわけではありません。映画で表現せざるを得ない必然性を感じなかったのです。ぼくが映画に求めているものは、映画でしか語り得ないものです。『真珠の耳飾りの少女』には、それがありました。
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参照:韓国仏教修業映画『ハラギャティ』#『達磨はなぜ東に行ったか』