ジョージ・オウエル/ゴダール/村上春樹

ハードボイルドの探偵もので、舞台は近未来のSFで、でも、道具立てはチープで何か半分含み笑いしながら、シリアスなドラマなんだと、言い聞かせながら、まあ、正座して観た映画です。言ってみればジョージ・オウエルの「1984年」の世界から愛でもってナターシャを救い出す劇画です。下のエントリーで『アフターダーク』の連れ込みホテルが『アルファヴィル』で、文中で、マリがこのホテルの店長カオルに映画説明をしている。マリは19歳の女の子なのですが、60年代に詳しいのです。村上春樹は、こんな風に自分の得意な時代、文化背景に取り込んで、若者達を描いてしまう。その辺が問題ありとは思うのですが、若者達がそれでも読んでくれるのですから、ぼくの危惧する老婆心は意味のないものかもしれません。

「たとえば、アルファヴィルでは涙を流して泣いた人は逮捕されて、公開処刑されるんです」/「なんで?」/「アルファヴィルでは、人は深い感情というものをもってはいけないから。だからそこには情愛みたいなものはありません。矛盾もアイロニーもありません。ものごとはみんな数式を使って集中的に処理されちゃうんです」−『アフターダーク』p84−

女の子が元女子プロレスラーのカオルに村上春樹節でこんな風に言っちゃうのです。でも読者と春樹さんとの間には、長い間に培った了解事項があるのでしょう。春樹コードだから許される。少年、少女が登場しようが、村上春樹は揺らがない。それはそうと、6/25の旧ブログでぼくはこの映画についてカキコしていましたので、又、転載します。

私はフィクションをつくることからはじめ、しかもそのフィクションをいつも、きわめてドキュメンタリー的なやり方でとりあつかってきました。『アルファヴイル』は完全にフィクションによる映画でー事実、この映画は《愛しているわ》という言葉で終わるし、それにバイオリンの演奏が入っていたりしますー、それと同時に、完全にドキュメンタリー的なやり方でとりあつかわれた映画です。われわれはなにかを隠すようなことは少しもしていません。われわれはこの映画を、当時のあるがままのパリで撮ったのです。この映画は、劇画と同様、きわめてドキュメンタリー的なものであると同時に、完全にフィクションによるものなのです。それに、私は劇画が大好きです。劇画のなかには、映画のなかにあるのよりもずっと多くの想像があります。事実、劇画は多くの才能を必要とするのです… 私に夢があるとすれば、それは、パニョルとかチャップリンとかがしたと同じようなやり方で仕事をするというものです。つまり、自分の撮影所をもつというものです。チャップリンには才能があったわけですが、このことを別にすれば、彼の映画が大きな成功をおさめたのは、彼は自分の撮影所をもっていたからです。彼は一本の映画を、六、七年の年月をかけてつくっていました。これは一本の映画にとってはほぼノーマルなことで、彼にはそれができるだけの時間があったのです。……彼には、かならずしも少人数ではなく、多くの人と一緒に、はじめからやり直したり、…その必要があれば……大きな見世場をつくったり、間違いをおかしたり、さがし求めたり、発見したりすることができるだけの時間があったのです。私はどうかと言えば、私はいつも、……生き残りつづけるために……まさに自分の車庫のすみや仕事場のすみで仕事をすることを余儀なくされてきました。映画を、より少ないものをつかってつくってきたわけです。事実、この映画のアルファ60[アルファヴィルの全機能を管理するコンピューター]も、スーパー・コンピューターといったものをつかって撮ったのではなく、三ドルで買える、フイリップス社の小さな扇風機をつかい、それに下から照明をあてて撮りました。またたとえば、われわれは[アルファ60の声を吹き込む人を見つけるのに]時間をかけ、声帯の手術を受けたあと、もう一度しゃべれるようになった人をさがしてきました。だから、そうしたことをするための……さがしだすための時間が必要なのです。それにまた、アイディアを思いつくための時間も必要です。アイディアというのは、こんなふうにしていれば[じっと考えこんでいれば?]生まれるというものではなく、実践から生まれるのです。それに私は今では、私がテレビ的作品と呼ぶものを、あるいはまた、新聞や雑誌に近いような作品をーといっても、ふつう見られるのとは違ったジャーナリズムに近いような作品をーつくりつづけたいと考えているのですが、そのために、私はいつも、ひとりきりの、きわめて孤独な状態におかれます。また同時に、いつも闘っていなければならず、しまいには疲れてしまいます。もう一度フィクションととり組むためには……視聴覚的ジャーナリズムのなかで私が学んだことに依拠しながら、いくらか違ったやり方で……ハリウッドの古典的な映画のやり方とは違ったやり方で、もう一度フィクションととり組むためには、多くの時間が必要なのです。オーケストラが交響曲を演奏する場合と同様、あるいはまた、画家がひとりで絵をかく場合と同様、多くの時間が必要なのです。−『映画史 ?』167、8頁よりー

1968年に『2001年宇宙の旅』が完成する。ハルに比べ、アルファヴィル60のチープさに唖然とする。殆ど同時代の作品だとは想像出来ない。映画史の中でこのニ作品はどう位置づけられるのだろうか?先にキュブリックの映画が完成されていたら、ゴダールはこの映画を作っていただろうか?って言うようなことをカキコしていました。