キース・ジャレット/松岡正剛

寒くて雨模様です。こんなときはキースのケルン・コンサートが良く似合うと『マシーン日記』の巻き助さんのカキコがあったので、旧ブログで7/15の何故か良寛とキースに触れたカキコをコピペします。
松岡正剛『千夜千冊』“「良寛」/千夜”が取り上げられたが、ぼくの知識は水上勉の『良寛』(中公文庫・)ぐらいしか読んでいないので、コメントをしようがありませんが、松岡さんは良寛にはグレン・グールドキース・ジャレットのピアノがよく似合うと書いているので、結語として、Nさんもブログでも紹介している「せつない」っていう耳の言葉を背景に、キースの『ザ・ケルン・コンサート』を画像として貼り付けました。今でも名盤として不動の地位を堅持していますが、下記に引用した松岡さんの「切実、切実…」のリフレーンは確かに良寛の詩歌のみならず、キースのせつない、やるせない、ピアノソロの打点が「やるせなく」響く。

良寛の生き方は、「脆弱を恐れず、寂寥を忘れず」というところにあった。なぜ、弱っちくてはいけないのか、なぜ、寂しくちゃいけないか。そう、良寛は問うたのだ。弱いのは当たり前、淋しいのはもっと当たり前、それでいいじゃないかと問うた。

   柴の戸のふゆの夕べの淋しさを
   浮き世の人にいかで語らむ

 良寛は強がりが大嫌いで、威張っている者をほったらかしにした。引きこもりも嫌いだった。そういうときは古き時代のことに耽るか、野に出て薺(なずな)を摘んだほうがいいと決めていた。

   ものおもひすべなき時は うち出でて 
   古野に生ふる薺をぞ摘む

 こうして、良寛はどんなときも、一番「せつないこと」だけを表現し、語りあおうとした。「せつない」とは古語では、人や物を大切に思うということなのである。そのために、そのことが悲しくも淋しくも恋しくもなることなのだ。それで、やるせなくもなる。
 しかし、切実を切り出さずして、何が思想であろうか。切実に向わずして、何が生活であろうか。切実に突入することがなくて、何が恋情であろうか。切実を引き受けずして、いったい何が編集であろうか。
 ぼくは思うのだが、われわれはあまりにも大事なことを語ろうとはしてこなかったのではないか。また、わざわざ大切なことを語らないようにしてばかりいたのではなかったか。良寛の詩歌を読むと、しきりにそのことを思いたくなる。
 これは「千夜千冊」全冊を終えての、結論である。

   無常 信(まこと)に迅速 
   刹那刹那に移る
   紅顔 長く保ち難く 
   玄髪 変じて糸となる

   いざ歌へ われ立ち舞はむひさかたの
   今宵の月に いねらるべしや

   いざさらば われは帰らむ 君はここに
   いやすくいねよは 明日にせむ

“1000夜”より抜粋、⇒ “674夜”
こうして、松岡正剛の“千夜千冊”は暫し語り終えたのです。