平和への欲望

先日(11/16)の映画を巡ってのスレで、特に韓国仏教映画『春夏秋冬そして春』のコメント欄でぴぴさんとのやりとりが長く、深くなりましたし、僕自身もそれに触発されて思い到った諸々が、深く拡がるような予感がありますので、新しくエントリーを上げて書いてみます。この映画で、主人公の俳優が人生の断面図において別の俳優になっていく実験的手法は賛否両論あると思いますが、ただ、これは多重人格の映画では勿論なくて、一人の役者に色々のキャラを演じさせて、ビリーミリガンでしたか、又は、『サイコ』でアンソニーパーキンスが演じた声、表情で自分の中に巣食う色々な人間になってしまう恐怖映画もありましたが、そんな空間軸でなく、生きていく時間軸の中で、俳優が違ってくるといった手法は、やはり随分、違和感がありました。観客に一人の俳優で演じさせる方が説得力があるかどうかの採否の問題なので、監督が決断したのですから、仕方がないと思います。その冒険は彼が引き受けるのですから…。

それより、ちょいと、気になり、クリシェだと思ったのだ、住職の「欲望が執着を生む、執着が殺人を生む」ていう台詞です。正確には少し違うかもしれませんが、大意はそんなものでしょう。常套句で「愛は世界を救う」ってありますよね、僕の中に最も過激な性行動、まあ、これが愛とどう違うのかというのも難しい問題を孕んでいるのですが、「愛」というと語弊がありますので、愛により近接した「性衝動」と理解して下さい。

その性衝動で過剰でアブノーマルなものはSMなんてものではなく、「恋愛」だと思うわけです。SMにしろあらゆる異常性愛は体位のバリエーションの問題に過ぎず、「恋愛」とは位相を異にする。「恋愛は世界を救うどころか、破滅さえする」、「暴力なり、殺人を生む」。この世から戦争をなくそうと思えば、そんな、異常性を生む恋愛感情を去勢すれば良い。そんな作業仮説は、僕が言うと「自己弁明」「自己正当化」になる危険性があるので、本当は、ぴんぴんの、ぎらぎら脂ぎった青春を謳歌している若者が、そんな「去勢」を肯定した言説をどのように理論武装するか、聴いてみたいのです。

松浦理英子さんはそんな問題意識を持っているみたいですが、僕自身、ホルモン注射で、そんな「去勢の日々」をすごしているのですが、「性衝動」に似たものはあるのです。でも、何か違う。「平和への欲望」って言うと、何のこっちゃと、苦笑いされかねませんが、ただ、当初、予想していとのと、違って去勢によって無気力に成らなくて、何か別の好奇心が立ち上がったという感じなのです。その「別」は括弧つきの『欲望』であって、暴力や殺人を孕む執着の欲望とは違う欲望なのです。

こんなことを書くと、お前はこの世から戦争を無くするには、通過儀礼として男を去勢すれば問題解決だと思っているのかと、質問されそうですが、意外と現実的な解決策かもしれない。別に去勢されたからと言って、着床には色々な技術があるので、問題ないでしょう。SFチックな話だと失笑しないで下さい。ただ、内分泌療法している僕が言っても説得力がないですね。映画の話から脱線しました。この『去勢の日々』はぼくが継続した考えているテーマでもあるのです。悪しからず…。

そう、「愛は世界を救う」も本当だし、「愛は世界を破滅さす」というのも本当だと思うのです。愛も欲望もエネルギーでしょう。エネルギーには善悪はない、去勢によってもエネルギーは残存しています。ただ、それが物凄く平和的なんです。
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