ドストエフスキーではありません、トリスウイスキーです

東大ではミス・ミスターコンテストが行われたらしいが、京大では、企業の冠が禁止されているので、ミスコンのジェンダー以前の問題で実施されなかった(注:京大ミスコン関係URL)のであるが、、あまりシリアスな問題へと発展もなく、折角、“森岡正博生命学のBBS”でスレが立ったのに、動きがありませんでしたね、それに関連して“吟遊旅人”HPで、シンクロ・スレがカキコされ、ミスコンが脱線してトリスバーになってしまいました。

そもそも、大正11年の赤玉ポートワインのポスターの美人がひょっとして、日本で最初にミスコンで優勝して世界六位の美人の称号を貰った当時、学習院中等部の女学生だった末弘ヒロ子ではないか?と誤解したのです。そうすると、吟遊旅人でおなじみのバッキーさんから、

赤玉ポートワインのモデルさんは、女優の松島栄美子です。彼女は、サントリーの創業者鳥井信治郎がワイン宣伝用に結成した歌劇団「赤玉楽劇座」のマドンナで、6日間かけて、出入りの河口写真館を閉め切って撮影されたとか。このポスターを企画したのは、片岡敏郎で、鳥井に森永製菓宣伝部長から引き抜かれた男です。

というレスがあり、あちゃぁ〜、と勘違いが判明したのです。そうしたら、旧ブログで、7/1付きにトリスのことをカキコしていたことを思い出しました。kingさんが卒論で取り上げた後藤明生がトリスと縁があったのです。以下コピペします。

  • =1958年(昭和33年) 26歳の折、後藤明生博報堂嘱託のラジオCM企画担当になって、 『ドストエフスキーではありません。トリスウィスキーです』って会心のCMをつくったが、ボツになった。 トリスと言えば、洋酒天国開高健である。後藤明生の方がたった二歳年下なのか、内向の世代と語られるので、大分、後デビューの感じであったが、そんなに違いない。 ただ、昭和一桁生まれの人の一、二年は随分、体験に差を生ずるらしい。 この年、開高健は『裸の王様』で芥川賞を授賞している。年譜を見ると、1956年に開高健企画による<洋酒天国>が創刊され、トリスバーが大繁盛である。 この頃、小島信夫後藤明生はしばしば、訪問するようになるのですが、本格的な作家デビューを果たしていない。博報堂を退社しても、平凡社に就職、サラリーマン生活を続けている。平凡社を退社するのが1968年の36歳で、それから、毎回芥川賞候補作としてノミネートされる。近畿大学文芸学部の教授に就任したのは57歳の時で、昭和の終わりの年、平成元年です。それから、十年、67歳の平成十一年に逝去。 ちなみに開高健は昭和55年で1980年、50歳で逝去。若すぎる。三島由紀夫も、寺山修司中上健次も若すぎる。同じ内向の世代と言われる阿部昭が亡くなったのが、54歳、平成元年である。高橋源一郎は50歳を超えて子供を設けたというのに…、彼の『日本文学盛衰史』は冒頭、二葉亭四迷の死によって、物語が始まるが、『日本近代文学との戦い』は遺稿集として1990年代に発表された後藤明生の単行本未収録本の大半を収録しているが、メイン・テーマーは二葉亭四迷の「小説論」である。 「言文一致」、漱石「写生文」を講義しながら、後藤明生自身の文体の秘密、小説を書くときの振舞い方を徐々に明かしてゆく。具体的には筆記者後藤宙外による『苦心談』による。=

「一躰『浮雲』の文章は殆ど人真似なので、先ず第一回は三馬と饗庭さんのと、八文字屋のものを真似てかいたのですよ。第二回はドストエフスキーと、ガンチャロフの筆意を模して見たのであッて、第三回は全くドストエフスキーを真似たのです。稽古する考えで、色々やッてみたんですね」ー『日本近代文学との戦い』88頁より…を巡りながら、作者の小説論を展開するのです。

⇒kingさんの 書評♪ 『浮雲』『小説は何処から来たのか』(後藤明生)
参照:『洋酒天国』#『末弘ヒロ子』(最初のミス日本)♪『赤玉ポートワイン美女』#松島栄美子
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