呑む、打つ、恋

一昨日、天王寺映像館で、深作欣二監督の『道頓堀川』を観ました。原作は読んでいますが、映画も観たはずなのに、今回鑑賞して初体験のような新鮮な美味しい料理を味わった満足感がありました。その余韻があるものだから、二回目の大森一樹の『風の歌に聴け』はパスしました。村上春樹の原作で充分だと思うし、この歳になると、二本立てはきついです。

大体、文藝映画で原作より、よかったというのは稀で、大森一樹「風の歌を聴け」っていうのは、どうも違和感があって食指が動かなかったと言うのも事実です。一樹と春樹が結びつかないのです。『道頓堀川』は深作の映画になっており、真田広之がこんなに初々しかったのだと驚き、松坂慶子の清冽な色気にも、びっくりしたが、俳優それぞれが、存在感のある演技をしており、柄本明の流しのお兄ちゃんは、見事に「末期の視線」を表現しており、怖かった。

恋物語ハスラー物語がミナミを舞台にストーリー展開するのですが、学生時代、ミナミはあまり近づかなかったですね、キタをもっぱら遊びの場所にしていました。たまに行くと変なトラブルに引っかかり、碌なことはなかったのです。そんなぼくでも、この映像のところどころに懐かしさを感じました。

この原作二冊は文庫化されよく読まれた本なのに、近場の図書館のリサイクル棚にありました。もう読まれていないんだろうか?と危惧しますが、同じ棚に司馬遼太郎の『竜馬がゆく』が文庫全点あったので、多分、複数在庫を資料として持っているので、処分したのでしょう。これもなんかの縁だと、再読すると、当時と今とでは違った読みをするかもしれないし、本ってそういう読み方も必要だと思いますが、どうしても新刊偏重の読書になってしまいます。再読は大事と思いますが、映画の再見も中々しないものですね。

特に古典は意識して読まないと、通り過ぎてしまいます。先週はドストエフスキーの『賭博者』(新潮文庫)を読みました。これもリサイクル棚から貰ってきたのです。本書は金に窮したドストエフスキーがたった27日間で速記者による口述筆記で書き上げた、まるで賭博者そのものの荒業、綱渡りで、虎口を脱したのですが、その二十歳の速記者がアンナでドストエフスキーの第二の妻になるのです。「道頓堀川」の父(山崎努)と息子(佐藤浩市)のハスラーは、博打の火花で和解の出口を見出す。恋といい、打つといい、呑むは分からないが、ヒトの誕生から発生した基本的な欲望なのでしょう。生体維持ための食欲とは違う欲のための欲望と進化発展する厄介なものなのでしょう。しかし、厄介なものを背負うことが生きることなのでしょうが、益々この二つに萌えなくなってきた己の去勢の日々をちょっぴり、寂しく思いやりました。

映像館のスクリーンは巨大なので、実際に映写された映像が遠く過去を盗み見る遠近感が、より強く奥行きのあるリアリティを感じることが出来ました。この映像館は安藤忠雄の設計で、映画を鑑賞するにはとてもよいもです。最終回ということで、このイベントに始終関わった現場の人が挨拶したのですが、「シネ・ヌーヴォ」の支配人だったのですね、自分の映画館もあるのに、こちらで、ボランティア?活動したのかと、思いましたが、そう言えば、文化庁の寺脇さんが、かような施設を維持するのに一番、難しい問題は役人の人件費で、それがクリアできれば何とかやっていけるみたいなことをおっしゃていたが、成程、このイベントも民間の協力を仰いでいるんだと、納得しました。

シネ・ヌーヴォ」では12/18〜24迄、イラン映画祭が開催されます。日本未公開作品を中心に上映されるのです。中々九条駅まで行くのには、エネルギーが必要です。