がきデカ民主主義(4/4記)

あるサイトで少年よりオススメ本のリクエストがあったので、『熱い書評から親しむ感動の名著』から、ぼくがレビューした吉田満の『戦艦大和の最期』を推奨したのですが、いや、ちょいと待てよ、想像もつかない読解をされるかもしれないし、まあ、それもいいのだが、ぼくのバランス感覚で第二便としてこの「がきデカ」をオススメにしたのです。それで、鶴見、上野、小熊さんたちの『戦争が遺したもの』を引用したのですが、言葉が足りないところがあるので、このブログでもう一回、引用します。
 ★鶴見俊輔さんが『戦争が遺したもの』で「がきデカのこまわり君」について語っている。『<民主>と<愛国>』(新曜社)の小熊英二が、こんなことを鶴見さんに言っている。

小熊:そのあと七十年代に、鶴見さんは漫画の『がきデカ』を評価なさって、「がきデカ民主主義」ということをおっしゃった。あの金と性しか興味がない少年警察官に象徴される、私利私欲によって支えられる民主主義、大義のために死ぬなどとんでもない、だから戦争にも行かないという思想を打ち出されたわけですよね。鶴見さんのその部分を受け継いだのが、「私利私欲の肯定から出発する」という加藤典洋さんだと思いますが。(中略)
小熊:しかし鶴見さん、「日本人の自画像」として「がきデカ」が広く受け入れられるというのは、かなりむずかしい要求だと思いますよ。自分が金と性しか興味のない権威主義者だという自画像を進んで受け入れる人はそんなにいないでしょう。/それには耐えられないから、いまは『がきデカ』のような漫画よりも、小林よしのりさんの『戦争論』みたいに、特攻隊を賛美して、「公」のために死ぬのは美しいとかいう漫画の方が、人気を集めているわけでしょう。小林さんの『戦争論』というのは、彼自身は意識していないと思いますが、「がきデカ民主主義」への反動として出てきたものだと思います。
上野:吉本さんも七十年代から、半ばアイロニーを込めてでしょうけれども、大衆消費社会の肯定に向かいますよね。それはある種の生活保守主義の肯定だし、結果として高度成長のもたらした繁栄への追従でした。私にはこの欲望ナチュラリズムの意図的な肯定も、どんな公的な大義もなくなったことによって登場した、一つの思想だと思えます。鶴見さんが同じ時期に「がきデカ民主主義」を評価なさったのは、やはりある種の現実追認になったと思うんですね。それがもたらした結果は問わないまでも、鶴見さんが「がきデカ民主主義」を唱えた意図は何でしたか。
鶴見:私は『がきデカ』はおもしろいと思ったけど、みんなが「がきデカ」になるべきだと言ったわけじゃない。私は知識人を批判するけれど、庶民への説教は任ではない。1930年代には、「がきデカ」のような日本人の自画像が現われる余地がなかった。遅ればせながら、こういう自画像が出てきたことは、日本人の自覚が1930年代よりもあると思う。それだな。それだけでうれしい。ー『戦争が遺したもの』356、7頁よりー

「金と性」に縁がなくなったから、「がきデカ」になりたくても、無理だが、小林さんの『戦争論』も嫌です。となると、第三の道を歩かなくてはいけません。そんな思考の道行きがこのブログの微かな道でもあるのです。
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