Mなふたりの交歓談義

宮台真司×宮崎哲弥著『エイリアンズ』の【bk1レビューアップ】しました。千六百文字のうち半分は引用で、それに対するレスみたいな、レビューと名付けるには問題ありと思うが適当な言葉がないので、ご勘弁を…。

この本は色々な人がブログでコメントしているから、誰かがレビューアップしていると、思い込んでいたのですが、誰もいませんでした。本書は取り上げ方によって切り口の違うコメントが吐き出てくる予感があるのですが、僕自身は出来るだけ後景に引いて、素直に二人のMさんの御高説を拝聴することに徹しましたが、それでも、大いなる誤読をしているのではないかと、ちょぴり、不安です。あとがきに宮台真司は書いている。

昔、ゴダールが言った。自分は「政治映画を撮る」のでなく「映画を政治的に撮る」のだと。政治映画は、映画を疑わずに政治を語る。そうでなく、政治をを疑うのと同じ意味で映画を疑えと。なぜなら、映画を疑えない輩―日常を疑えない輩―に政治を疑えないからだ。

先日の中原昌也×蓮実重彦の映画談義で、マイケル・ムーアの『華氏911』を二人とも、観たくないと言って、無視表現をしていたが、ゴダールの文脈で、あれは単なる「政治映画」と見做したのであろう。コイズミさんも無視したが、単に自分にとって面白くない「政治映画」と見做したかであろう。その辺の文脈の差異はどうなんであろうか、

論壇も同じだ。論壇誌の駄文は、論壇を疑わずに政治を語る。そうでなく、政治を疑うのと同じ意味で論壇を疑う必要がある。現に、政治よりも重要なことが世のなかには満ちている。政治を語ることに時間を費やすことで何が犠牲になったかに敏感である必要がある。[……]以上のように言うと、「オマエこそ新聞で発言しまくってるじゃないか」と反駁される。違う。仕方なくやっているだけだ。むろん記者や編集者との人間関係もあるが、それより自分が発言しなかったときに誰が発言するのだろうと考えると不安に襲われるのが大きい。

成程ね、どこかの掲示板でも書いたことなんですが、内田樹×宮台真司の対談が実現しないかと、そんな編集企画を渇望しているのです。無理かな、往復書簡、平行線の論争でもいいのです。デスコミュニケーションで交歓があれば、ぼくは満足です。
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この『中国女』という映画は、当時は、おかしな映画……ばかげた映画とみなされました。「政治というのはこんなものじゃない。こういう人物たちが……こういう学生たちがやるものじゃない。だいいち、この学生たちはブルジョワじゃないか。それにこれらの言葉は、これはいったいどういうつもりなんだ? ばかばかしい」というわけです。私としては、この映画はむしろ、民族学的な映画のつもりでした。ひとつのドキュメンタリーのつもりでした。私は、自分がまだよく知らなかった、ある種の人たちを研究しようとしたのです。その人たちというのは、パリのマルクス・レーニン主義の小さな党派に属していた人たちです。私はその人たちがどういう人たちなのかよく知らなかったのですが、でも、たとえば共産党員の組合活動家といった連中よりはむしろーーそれに、かりに連中を研究しようとしたとしても、連中は私に撮影させなかったでしょうーー、かれらの方に心をひきつけられていました。かれらには、むしろ初期のキリスト教徒に似たところがあって、私の好奇心をそそったのです。私はそうやってジャン=ピエール・ゴランを知りましたーーそれが私と彼との最初の出会いですーー。彼はあるサークルのメンバーとして、<マルクス・レーニン主義ノート>という題の雑誌を発行したり、ある学会に参加したりして、私にいくらかの助言を与えてくれたのです。そして彼はそのために、サークルのほかのメンバーにつるしあげられたりしていました。なぜなら、私とつきあっていたからです。かれらの考えでは、漠然と似而非(えせ)アナーキスト的なところとか似而非なんとか的なところとかをもったブルジョア映画作家とは、つきあうべきじゃなかったのです。/それにまた、黒人役で自分自身を演じた、オマール・キオップという学生もいました。私が彼を知ったのは、やはりナンテールの大学[パリ大学ナンテール分校]の学生だったアンヌ・ヴィアゼムスキーを通してです。私は彼に、映画のなかで自分自身の役を演じてくれと頼みました。そして映画のあるシーンで彼に、こう言ってよければ、まさに黒人として、ほかの人物たちに対する講義をさせました。オマール・キオップは三、四年前に、セネガルのサンゴール政権下の牢獄で死んだということです…… そしてこれらのことは私には……私が言いたいのは、この映画は……事実、かれらの努力はばかげたものでした。でもかれら自身は、ばかげていなかったのです。ばかげていたのは、すべてがこんなふうに進行したということです。そしてこの映画の真の現実性(リアリティ)は、この人物たちはばかげたことをしているというところにあります。それに私は、自分の生まれを通して知っていることだけをとりあげようと心がけました。つまり、良家の息子や娘たちに、バカンスの期間中にマルクス・レーニン主義ごっこをさせようとしたわけです。かれらはあそこで、子供たちがインディアンのテントをつくって遊ぶのと同じように、マルクス・レーニン主義ごっこをして遊んでいるのです。あるいはこう言ってよければ、中国人ごっこをして遊んでいるのです。当時は赤い小さな本[『毛沢東語録』]が登場したばかりのころです…… でも今、当時のあのごりごりの闘士たちがその後どうなったかを考えると…… 事実、この映画は真のドキュメンタリーです。そして闘士たちは、このドキュメンタリーを受け入れようとはしませんでした。ドキュメンタリーというのは、いくらか感動的なところとばかげたところとをもったなにかなのです。私はこのドキュメンタリーを、実際にありそうなこととして提出しようとしました。事実、この映画は、自分の両親の大きなアパルトマンに閉じこもり、そこで二ヶ月間にわたってーほかの人たちが街頭で、これとはいくらか違ったやり方でしていたのと同じようにーマルクス主義ごっこをして遊ぶある娘についての映画です。この映画には、同時に真実なものとにせのものとがあったのです。/だから私が思うに、この映画はきわめて真実な調子をもっています。それに、あたかも偶然からのように、この一年後にナンテールの出来事がおこりました。だから、この映画には真実のなにかがあったわけです。しかも私はその真実のなにかを、それが実際に形(フォルム)をとる以前に撮影したのです。私が映画に興味をひかれるのはこうした方向においてです……というか、映画はこうしたことに……形式(フォルム)の創造を見ることに役立つのです……生物発生学のために役立つのです…… 生物発生学というのは、きわめて神秘的で、しかも法則によって支配されていないなにかです。生物発生学の法則の数は生物学のそれより少ないのです。これこれの種類の鳥は、なぜこれこれの形の羽をもっているのか……どうして、褐色の髪の人がいたり、黒い髪の人がいたりするのか…… 要するに形式の創造というのはどのようにしてなされるのでしょう? それにまた、社会生活についても同じことが言えます。社会というのはどのように形づくられる(フォルメ)のでしょう? 人びとはどのようにして、自分の形をつくり(フォルメ)、自分に形を与え(アンフォルメ)、自分の形を変える(デフォルメ)のでしょう? あるいはまた、ある形式がいったんとられたあと、その形式はどのようにして変えられるのでしょう? なんなら、それを革命と……まわれ右と呼ぶこともできます……いや、螺旋状の回転と呼ぶべきでしょう。なぜなら、まわれ右しかなされなければ、堂々めぐりにしかならないからです。毛沢東が言ったように、形式の変化は螺旋を描いて進むのです。ものごとはそのようにして変化するのです。−ゴダール著『映画史?』322〜5頁−

♪うらをみせおもてをみせて散る紅葉 ♪良寛