フィクションが立ち上がる時、

たとえば『極北の怪異』(引用者注:ロバート・フラハティ、1920−21年作品アメリカ映画)のカットをもう一度とりあげる必要があります。あるいはまた、フィクションによる映画であって、ドキュメンタリーとはなんの関係もないとされている映画のあるカットを……たとえばヒッチコックの『めまい』のあるカットをとりあげる必要があります。そしてかりに、諸君が朝の十時にここにやってきたときに、突然その映画の断片を映写するとすると……キム・ノヴァグが……いや、ある女が街を歩いているところを見せるとすると、諸君が自分は映画を見ているのだということを意識するようになるまでに、ニ、三秒はかかるでしょう…諸君が映画狂だとした場合、その女がキム・ノヴァクだということがわかるようになるまでに、ニ、三秒はかかるでしょう。そして、映写が始まってからその三、四秒を分析するとすれば……たとえば、諸君がそのキム・ノヴァクを見ているところを小さなビデオ・カメラで撮影し、あとでそれを見るとすれば、フィクションが出現する瞬間というものがあることがわかるはずです。つまり、諸君が、あれは主婦が自分の子供を学校に迎えにゆくところなのだろうか、それとも秘書が自分の社長の手紙をほかの社長のところに届けにゆくところなのだろうかといったことを考えなくなり、その女がキム・ノヴァクその人になる瞬間というものがあるのです。諸君が「いや、あれはキム・ノヴァクだ。この前にこれこれのことがあり、このあとでこれこれのことがおこるんだ」と考えるようになる瞬間というものがあるのです。となると、フィクションというのはいったいどういうもののことなのでしょう?私が思うに、フィクションというのはコミュニケーションのひとつの契機です……証拠品を受け取ることのできる瞬間のことです。そしてフィクションは、受け取られなければ、ひとに見られることのない証拠品にすぎません。証拠品は、ひとに見られてはじめて、フィクションになるのです。フィクションをつくりあげるのは視線なのです。このことは、警察のファイルやコンピューターにおさめられている証拠品はただの証拠品にすぎないということを考えれば、すぐにわかるはずです。警察には証拠品としての顔写真は何百枚とあります。そして警察官がそのなかの諸君の写真をじっと見つめながら、《おい、おまえだな、これこれの日にこれこれの場所で年老いた母親を殺したのは……》とつぶやくとすれば、そのときはじめて、そこにフィクションが生まれるのです……諸君が母親を殺している場合は現実的なフィクションが、そうでない場合は非現実的なフィクションが生まれるのです。フィクションというのは視線なのです。そしてテクスト[この場合は犯罪調書]というのは、その視線が表現されたもの……その視線にそえられた言葉なのです。事実、フィクションというのは、感化[あるいは刻印]としてのドキュメントが表現されたものです。感化と表現は、同じひとつの事柄の互いに異なる二つの契機なのです。なんなら、感化は表現の契機に左右されるとも言えますが、でもひとは、この感化としてのドキュメントを見ることを必要とするときにはじめて、自分を表現することになるのです。そして、それがフィクションになるのです。でもフィクションもまた、ドキュメントと同じほど現実的なもので、現実とは別の、ひとつの契機なのです。−『映画史 ?』195、6頁よりー

一冊の本の中にもそんなフィクションが、視線が、多分それは読み手の側で本の中の言葉に感応して、ゴダールの言う感化(刻印)がなされ、ノンフィクションとして読み始めたものがフィクションとして立ち上がる場面が個々ズレながら、読み手に感応する能力さえあれば、フィクションが立ち上がり、恐らく、そこで、見る側、読む側からの発信、表現が立ち上がる。

コミュニケーションの問題、双方性の問題で、本書で彼が語る映画論はそのことなのでしょう。『気狂いピエロ』でベルモンドがベラスケスについてモノローグする彼の絵は事物そのものを表現しようとするのでなく、事物と事物の間であるも、映画は矢を射る側、射られる側に属しているのではなく、矢そのものであるも、彼の映画をフレームで論じるべきでないだろう。映画でなくとも、本来、文学というものも、そういうものであろう。

だから、精神分析医にしろ、社会学者にしろ、生きて動き回る生ものを仮死状態にして分析、論じるのは、面白いけれど、又、読み手としても、その作家に対して新しい発見もあるが、あくまで、それは補助線として、又は小さいエピソードとして楽しむか、兎に角一定の距離を置くべきであろう。図式化は図式した途端、役割を終わるのです。そこには形骸があってもリアリティがない。映画や文学はあくまでリアリティを立ち上げる実践(実作)なのです。ゴダールを、保坂和志を知ろうとすれば、作品を映画を徹底して観たり、読んだりするしかないのです。