7/14記ー旧ブログより転載ー「世間体という多数派」

shohojiさんから下記のような♪メールが届いて、♯でレスしたのですが、どうも、適当に答えているような気がして気になっていたのですが、bk1のkingさんの投稿書評で似たような問題意識でオンエアされていました。shohojiさんだけでなく、みなさんも折角ですので、御覧になっていただきたいと公開しました。コメントがありましたら、遠慮なく石を投げてください。「幽霊みたり、枯れ尾花」って多数派の正体ってそんなものだと思います。風向きによって変幻自在する。だから、こちらも、固定の位置で正対するのでなく、動き回って押したり、引いたりする柔軟性が必要なんだと思います。多数派って『バカの壁』が作り出した妄想って言う「自己防衛」かもしれない。単なる外部として権力構造でマッピングすると、どうしても、説明しきれない残余があります。世間体とは国家であると、外在化すれば、敵の正体も明確になってわかりやすいのですが、そんな二分法では多数派の正体は見えない。むしろ、世間体とは「自由を欲しない」、本音のところでは、『自由からの逃走』をしたがっている「不自由な自分自身」という不様な己から正対するしかないのではないか?臆病さが枯れ尾花を過大評価するのではないか。このコメントは下記のレスの続きとして読んでください。(葉っぱ64)

♪いつも不思議に思うのですが、たとえば小泉についても、たとえば先日の<自己責任>騒ぎのときも、わたしの知っている人たちや家族など、誰もいわゆる多数派ではないのですよ。じゃあ、この多数派、目に見えない多数派って、いったいなんでしょう。不思議だ。周りにはひとりもいないのに、メディアによると多数派・・・。葉っぱさん、どう思われますか。
♯今日のテレビで鳥越氏が小泉さんに直接聞いた話で、自民党の支持率が40%あれば、問題ないんですって、だから、多数派は、過半数を意味しない。まあ、声の大きさにもよると思いますが、トピックていうか、ヘッドラインに相応しい言葉にマスコミが飛びついて、それが、実態より大きく膨れ上がり、影絵のように人びとを錯覚させるのかもしれません。“目に見えない多数派”って検証する必要がありますね。