引きこもり者に語る言葉は何?

社会的ひきこもり―終わらない思春期 (PHP新書)「ひきこもり」救出マニュアルひきこもり文化論ひきこもれ―ひとりの時間をもつということ
◆もう、ず〜と、パソコンを始まる前から『引きこもり』について継続して考えているのですが、いまだに『引きこもり』自体の言葉もよくわからない。だから、ネットサーフィンで“Hikikomori”をキーワードに検索して様々なサイトを覗いても癌症例ほど明晰でないどころか、単なる社会学上のテクニカルタームか、精神分析の対象となる症例なのかわからない。識者の本で、せめて入り口など勉強しようと、まず、斎藤環さんの書くものを愛読したのです。でも、症例としての『引きこもり』と社会現象としての引きこもりは一人の実存の場でどのような位置を占めているのかもよくわからないまま、読んでいるうちに、脱線してしまいました。
◆斎藤さん自身、博覧強記の方で、ジャンルを超えて、映画評論、文芸評論まで、やってしまい、それにつられて、僕自身も玄関は『引きこもり』って何だろうから始まったのですが、、色々な本を読み始め、映画も劇場に足を運んで観るような習慣になったり、ネット書店に書評投稿したり、掲示板にカキコしたり、そしてブログを始めたわけですが、そもそもの出発点は『引きこもり』についてだったのです。まあ、そんなカラオケ言説はここまでで、よしにしますが、本当に引きこもりの対処方法を知りたいのです。
『引きこもり』は日本独自の社会問題ではないかという観点からもそれは社会学の問題により重心を寄せた方がいいのであろうか?香山リカといい、引きこもりに関心を持つ精神分析医は一歩も二歩も社会へ、政治へと積極的のコミットメントしている。吉本隆明通過儀礼として引きこもりを肯定的に捉まえて『ひきこもれ』を書いている。
◆何らかの病名で診断され得ない、頭痛もなく身体の不全感もなく、いたって健康で、ただ、他者と関わりたくない、世間に出たくない。自分を傷つけ、人を傷つけてまでも、社会に適応したくない、家庭内でも全く問題をひきおこさない「いわゆる『引きこもり』」は一応、経済基盤で対応しきれているレベルでは一人の引きこもり者に対して、叱咤激励することは逆効果を生んで、何らの問題解決にならないのではないかとも思っているのですが、ぼくの処方箋は間違いでしょうか?勿論、何らかの精神疾患で、本人が身体の異常を訴える場合は、精神病疾患の問題であり、それは別段、日本独自の『Hikikomori』でなく、世界共通の症例であろう。ここで、ぼくが悩んでいるものは、そのような引きこもりでないことは申すまでもない。恐らく社会学の対象としての“Hikikomori”です。精神分析医の叡智もさることながら、社会学者の叡智も訊いてみたい気がします。宮台真司はそんな引きこもり者に対して、色々なバイパスをガイドして、社会の底が抜けていることを前提に『サイファ覚醒せよ!』を上梓しているが、そんな折節、武田徹さんがブログ(1/8)で書いている『共生を強制する抑圧』のタイトルにおける“自閉も許す共生”は考察に値する。

「果たして、語ろうとしないこと、耳をかたむけようとしないことが倫理的な罪であると教育されるべきだろうか。対話や参加が「善」であり、「癒し」であり「義務」であるというのは20世紀の神話である。あるいは病である。自閉をも許す共生でなければ、共生は抑圧の同義語になるだろう」

◆昨日のエントリーでちょいと紹介しましたが、『Aセクシャル』とは、一般に馴染みがないと思いますが、そんな自閉を許す共生を積極的に駆動しているグループが旗印にしている言葉です。“asexual”で、性的なものを拒否する世界と解釈してもいいらしいが、そんな一筋縄の解釈ではそのメッセージを捉まえられないみたいです。彼等自身の哲学、世界観に関心のある方はクリックして下さい。幅広くネットが拡がっています。多分、ぼくが、そんな風な人を傷つけない共生で成り立つ生が生きるに値するのかと、疑問をふると要らぬ御節介と顰蹙を買うでしょう。かような問題は切羽詰った当事者達の問題だからと言って、僕が埒外に追いやられても何の抗弁も出来ないというのは仕方がないことです。引きこもり者もとにかく、自分の鏡像、他我でなく、他者と語りたいという欲望を持って欲しいと願うばかりです。これも『共生を強制する抑圧』になるのであろうか?