手放せない記憶

鶴見俊輔と希望の社会学現代メディア史 (岩波テキストブックス)歴史の話 (朝日選書)
原田達/鶴見俊輔/武田徹
?原田さんのブログ『降り積もれば…』のエントリーで鶴見俊輔さんの「俺は人を殺した。殺すのは悪い」をめぐって、『傷』を背負い込まざるを得ない他者との関わりについて書いている。とても大切な問題であるが、生きることはアポリアを引き受ける実存の積み重ねなのでしょう。そうまでして生きたくないとしたら、かってあるサイトで教えてもらったように極限まで他者と関わり合わない、友達も恋人も性的な関係は拒否する無痛文明の中心で生きる。それをメッセージとして発信しているグループを教えてもらいましたが、ただ、彼等、彼女等は自傷行為に向かう人が多いみたい。そんな自傷にも向かわないで、他者を傷つけないで、人はのっぺりと、個の妄想に浸りきって平和に生きるというより、生存できるのであろうか?
?かって、鶴見俊輔について、2004年、4/13の武田徹オンライン日記で、『自分すら殺さないことって?』のタイトルで、

鶴見俊輔さんはアメリカ留学から捕虜交換船で日本に戻り、第二次大戦に従軍するのだが、そのときひとつのルールを自分に課していたそうだ。もしも米兵なり、占領地の住民なりを殺さなければならない状況に置かれたらその決行前に自分が死のうと。

このことに関して“自死を前提とする思想で本当のところ戦争を否定出来るのかと”と疑問を呈している。武田さんはブルーハーツの『チェルノブイリ』を紹介してブルーハーツのメンバーが舞台で飛び跳ねているときが、《日本は最大瞬間風速的に平和だった。その後ブルハは新興宗教問題で解散し、その先にはオウムの時代がやってくる。瞬間最大風速的な平和がなんだったのか。ボケとか形容されることが多いけれど、それは形容する側の立ち位置も問われるわけであって、自死を徹底的に回避しようとした思想の意味はどこにあったのか、そんなことを思想史的に整理しながら考えてみることは今だからこそ必要かも知れない。》と、かようなことを書いている。
?ぼくの旧ブログでゐさんの鶴見さんの言葉をめぐってのコメントを載せていました。(生野高校文芸部掲示板より)

No.1119 2004年04月14日 09:50 送信者:ゐ < >表題:殺すなという思想
つぎのふたつのものをよんでかんがえたことです。
☆葉っぱさん「人を殺すのは悪い/自死をよしとしない」思想 (注:このデータは旧ブログで僕自身の書いたものですが、今のところどこに保存されているか見当たらない。ご勘弁を…)
武田徹「自分すら殺さないことって?」 (注:上記?です)
自死をよしとする思想としない思想があるというふうにわけてしまうと、鶴見のしたことが不可解にみえてしまうのだろうとおもいます。正確にいうと、違和感がはいりこむのは、鶴見のいっていることにたいしてであって、かれがじっさいにしたこと、せざるをえなかったことにたいしてはなにもはいりこむ余地がない。それはもっというならば、自死をよしとする思想というのは、一般的な、自死の可能性をよしとする言説の共有ということであって、じっさいに、このわたしが自死するということとはまったく位相のちがうことだからです。「武士道、靖国から実は全共闘まで一貫して流れる公のために自死もやむなしという思想」というものと 殺すなら自死する、という思想は、ある条件のためなら、自死する、という構造において共通しています。わたしたちの心理的論理学は、いっぱんに、これこれならばなになにというとき、同時に、ひっくりかえして、なになにならばこれこれでもあろう、とかんがえます。雨ならば傘をもっていく、という「論理」は、傘をもっているならば雨なんだろう、という推論をうらがわに生みます。わたしたちはけっきょく、これこれ=なになにという方程式をたてて現実にのぞみます。そして、それはわたしたちが世界からまなんだことにもとづいているので、おおくのばあい現実によくあてはまります。
公のためならば自死やむなし、という思想は、公=自死という定理をうちたてたあと、自死するならば公のためになる、という論理にシフトし、自死しないやつは公に属さない、という言説となりおおくのいのちを殺しました。(このとき人間=公という方程式の定立も同時におこなわれているはずです)
殺さないためならば自死やむなし、という思想は、他人を殺さないためならば、じぶんを殺す、ということです。 ここで、他人を殺さない=じぶんを殺す、という式をたてたとき、わたしたちには「殺さない」と「殺す」が等号でむすばれていることに違和感をおぼえます。 この等号という「論理」をまもろうとすると (それが言語による思考というものの本質です)両辺はつぎのようでなければならない。すなわち、他人を殺さない=じぶんを殺さない か 他人を殺す=じぶんを殺す
さいごの方程式があたまにうかんだとき、それが、じぶんを殺すならば、他人をも殺す、という論理へシフトする予感をもたらします。
鶴見の「いっていること」への違和感は、このようにしてうまれるとおもわれます。しかし、ここで見おとされているのは、他人とじぶんがイコールでむすばれていることです。じぶん=他人=(生きている)人間、という論理がいきている平面のうえではそのようになります。しかし、戦場にある鶴見(それはいまの鶴見では「ない」)はその平面上のどこをさがしてもみつからないのではないでしょうか。なぜなら、そのとき、かれはすでに自死していたといっていいからです。
そのときのかれがさいごの実存をかけて決意したことは、「極端に私的な世界に立脚するブルーハーツ」のように
いやそれ以上に極私的な「できごと」だったというべきだとおもいます。かれは自死の決意という「できごと」がもたらす責任を放棄したところに立っていたのです。
生物学的生命が機能したままでたましいが自死するということはあるとおもいます。生物学的生命の実存性が狂ってしまう最前線では、集団的なたましいの仮死状態が継続するのだとおもいます。われわれにとって、それがいくら不可解なことであっても、それはひとつの適応です。じぶんと他人をつなぐ回路にもどってことばを発しようとしたとき、 鶴見さんが、戦後、「自分は人を殺した、人を殺すのは悪い、と、一息でいえる人間になろう」 とおもったというのは、殺すなという思想(未来)を、殺したというできごと(過去)にからめとられることなしにことばにしよう、ということであって、かれの極私体験もふくめた過去からのリハビリ宣言というふうにきこえます。それは鶴見さんが過去を払拭しているということとはちがいます。しかし、わたしはこの極私体験のしっぽをもったうえで すべてをいかそうとする思想以外のものを信用することはできない、とおもっています。

三人の方の鶴見俊輔に対するアクセスの方法は違いますけれど、溢れるばかりのリスペクトを感じます。