子供たちを守り続けた掃除夫のオッチャン

ライ麦畑でつかまえて (白水Uブックス)キャッチャー・イン・ザ・ライヘンリー・ダーガー 非現実の王国で仏壇におはぎ

誰かその崖から落ちそうになる子どもがいると、かたっぱしからつかまえるんだよ。…ライ麦畑のキャッチャー、僕はただそういうものになりたいんだ

旧ブログで、小学女子児童の痛ましい事件は、戸惑うばかりで、コメント出来ない。考えることと、想像することと、実際に行動する、やってしまうこととの間には広い川どころか、位相の違う段差、鍵穴の違う扉があるはずであるが、身体が躊躇なく反応してしまうアフォーダンスが、その行為に向かう身体のシステムが、どうしても、想像できないのです。通常なら、その瞬間に身体がフリーズしてしまう。戦場で、闘う兵士を作り上げるには、それ相応の訓練が必要であるのに、いとも簡単にその閾を越えてしまう。そのことが、怖いし、想像できないのです。ボタンを押す、引き金を引く、集団でやる、そうでなく、一対一で、自分の手で、身体が金縛りにならず、相手は無防備で、極限の受動性で身を任せている状態で、それでも出来る、可能だという恐ろしさです。ある種、無防備が最大の防御だと信じていたぼくの倫理観を揺さぶりました。でも、それでも、「無防備」であることの戦略的有利さを、子ども達に伝えたいと思う。「他者と語る」ことでしか、生きる意味はないのですから…。

◆というようなことを書いていたが、あまりにもお目出度いコメントかもしれない。性衝動は軽々とそんな言説をせせら笑って越えてしまう。今回の新聞販売員による女子児童殺害は性犯罪者に更生の概念は馴染むのかと徹底的に検証して欲しい。社会生活上のモラルを生きることと、性生活を生きることは論理的矛盾を孕むものであっても、性犯罪を回避できることは可能であるとしたら、それはどのようなシステムであるのか、単に人権擁護だけの見地では政治的駆け引きだけで、何の解決にもなりやしない。性犯罪者に対して、もし本当に更生が可能ならそのことを、やり方を、有識者は語って欲しい。ぼくも若い頃、同じ新聞社の新聞配達をやったことがある。この事件によって新聞配達員達が色眼鏡で見られてしまうことも哀しい。シカゴの郊外にある《ヘンリー・ダーガー》 の墓には「子供たちを守り続けた芸術家」という銘が刻まれていると聞く。ヘンリー・ダーガーも、又、「ライム麦畑のキャッチャー」なのだ。

◆そんな自省を又、思い起こしたのは、「巻きすけ」さんの 『マシーン日記』です。彼女の介護日誌は叙情を排した淡々と叙事したものですが、そのブログで、ヘンリー・ダーガーの想いを語っている。男と女と言ってしまえば語弊があり、荒っぽい言い方ですが、どうも、男どもはダーガーを自分なりの妄想の檻に閉じ込めたがっている。実際のダーガーは「不遇のアーティスト」っていう意識は全くなく、清掃の仕事を終えて、毎夜、自分で詳細に織り成す「歓びの王国」の制作に勤しんだというだけであろう。公表するなんても、考えてもおらず、こんな風にして、偶然が重なり、この国で自分の「王国」が鑑賞され、玄関に飾られて、働く女の人たちを勇気付ける。そんな僥倖を想像すらしなかったであろう。もし、この世にアナーキーな王国が存在し得るとしたら、ヘンリー・ダーガーの王国こそ、それに相応しい。そんな王国を持っている人が市井に隠れおおせているのではないか?公表されることを望んでいないにもかかわらず、ただ、ただ、描き、書く人が…。