ヴェロニカ・ゲリン

ヴェロニカ・ゲリン 特別版 [DVD]暴力の哲学 (シリーズ・道徳の系譜)
◆ブログを始めて予想をしなかったのですが、アクセス集中のため表示が出来ない事態が結構多いということです。勿論、ブログサーバーにも色々ありますから、そんな不測の対処方法が短時間で解決して別に目くじら立てることがないのが概ねですが、フリーであっても、長時間、表示も書き込みも出来ないっていうことになると、やっぱ引越ししたくなりますね。それが、今、引越ししている一因でもありますが、その引越し作業も“アクセス集中のため〜”というコマンドが出て、このところ頓挫しましたが、今、アクセス出来たので急いで旧カキコ『情念としてのジャーナリズム』(2004・6/19)を転載します。この日付けのエントリーを転載するのも別に無作為でなくて、吟遊旅人のぴぴさんが、酒井隆史『暴力の哲学』につけたコメントにちょいと感応したこともあります。

現代の日本ではデモもストも姿を消し、「内的敵対性がますます否認されて」いるが、その一方で、オウム真理教北朝鮮といった「敵」は交渉不可能な絶対的なものとされ、それに対する「不寛容」は増幅されている(敵対性の抹消と敵対性の絶対化)。

この引用はまさに実感として日々加速度をつけて迫ってくる不気味なものを指呼しています。
(転載):「ペンは剣より強し」が実現されると、束の間でも幸福な気持ちになれる。梅田ガーデンシネマで映画『ヴェロニカ・ゲリン』を観ました。6/11日付けの毎日新聞の記事によれば、公開に先立って関西大社会学部マス・コミュニケーション学専攻の学生達が試写会で鑑賞してジャーナリズム論についてゼミ授業があったらしい。講師はアイルランド文化に詳しい作家の武部好伸さんで、「実践的取材論」。麻薬犯罪の実態を暴き、96年に凶弾に倒れたアイルランドの女性記者をモデルにした硬派な実話映画である。ヴェロニカ・ゲリンを演じるのはケイト・ブランシェットで、パンフから引用する。

「Who is Veronica Guerin」:ーー1957年ダブリンに生まれる。会計事務所勤務等を経て、PR会社を設立。1952年に結婚し、90年に長男を出産、幸せな家庭生活を送る一方で、ジャーナリズムに目覚め、フリー・ジャーナリストとして手がけたスクープ記事がきっかでアイルランド最大の部数を誇る「サンデー・インディペンデント」の記者となる。当時アイルランドで社会問題となっていた“麻薬犯罪”の実態を暴く記事を発表。犯罪組織からの度重なる脅迫にも屈せず記事を書き続けたが、1996年6月26日、6発の銃弾に倒れた。ヴェロニカ・ゲリン、37歳だったーー。

しかし、彼女の記事と死が人々の心を揺さぶり、国会をも動かす力となって、アイルランド憲法の一部改正。犯罪の収益を没収できる法律の制定や、新たな捜査機関の設立へと、実りあるものとなった。それはジャーナリズム魂というか、情念であって、下記のスレでも言及したが、田中正造の「直訴」に繋がる痛ましい正義感かもしれぬ。ここではジャーナリストの公共性が信じられている。信頼性の拠り所としての共同体が公共圏として作動して一人のジャーナリストの魂を受け入れる健康さがある。ただ、戦場報道ではその公共圏が眉唾ものとなる。戦争の大義の不在が露呈されるだけでなく、拠って立つ国であれ、会社であれ、共同体そのものの幻想性が露呈されるのである。虚妄性、虚構性と言ってもよい。中央公論六月号で武田徹は『戦場で人質となったジャーナリストの幻想ー呆気なく打ち砕かれた「公共性」という大義』という特集記事を書いているが、ジャーナリストが真に公共的な存在になるためには国籍を離れる仕組み作りが必要と国連を窓口にした具体的な提案をしている。

ジャーナリストも公共性の体現者でありたければ、経済的な枠組みはともかく、アイデンティティの帰属先としては、人質交渉に当たれる程度の実効力を持つ国連的な公的機関を将来的には作っていくべきかも知れない。共同体ではなく、公共的な組織に帰属するようになって、初めてジャーナリストは名実ともに公共的な存在となる(後略)。

◆「ヴェロニカ・ゲリン」はある意味、幸福なジャーナリストかもしれない。今のジャーナリストは自分の帰属先が不安定のまま、戦いを余儀なくされている。誰のために戦うのかー子どもの未来のために、家族のためにーその事のために国境を越えて戦う信念を強固なものとするしかない。国家のためでないことを言い続けるしかないであろう。子どものない、そして家族のためにとも言えないぼくのようなオヤジはニヒリズムを超えて闘う情念としか言いようのない炎をせめて消さないように手かざしで風を避けてゆっくりと歩くしかない。そして、かすかな蝋燭の炎を別の蝋燭に点火する地味な作業でしか、このニヒリズムを超えることは出来ないと思う。