沖仲仕の哲学者

現代という時代の気質 (晶文選書)安息日の前に波止場日記―労働と思索エリック・ホッファー・ブック――情熱的な精神の軌跡
◆ぼくはエリックホッファーについて『沖仲仕の哲学者』としてのイメージと故中上健次「エリック・ホッファーのように生きつづけたい」というオマージュで想像する大男で身体で語る思索者という以外にはあまり彼については不案内なのですが、図書館の新刊コーナーにあったエリックホッファー著『安息日の前に』(作品社)を手に取ると、最初の冒頭1974年11月26日 午後10時と記されている日記は、去年から何となく初めてしまった日々更新のブログのマンネリしがちな気持ちを奮い立たされるような短文であった。捲ってみると、文字数も一息に読める長さで、時刻も明示されて、まさにエリック・ホッファーのブログではないかと思いました。

先日、短いエッセイからなる小さな本の最初の草稿を書き上げた。そのとき突然、最後の手を使ってしまったような気がして、この小さな本が思索者としての終わりを刻印するものになるかもしれないという不安に襲われた。新しいまとまった考えを再び紡ぎ出せるのかどうかも疑わしい。七十二歳になった私の知力が枯渇してしまったとしても不思議ではない。/うろたえたりはしなかった。いまや引退した沖仲仕として、一九四0年以来自分に禁じてきた、何千という小説を読む権利を手にしている。残された人生はわずか二、三年だろう。しかし、まず老いが自分の知力にどのような影響を及ぼしているのか、はっきりさせなければならない。判断力は衰えていない。いまでも意味あるものと無意味なものを区別できるし、読んでいる本や自分が書いている本について適切な判断を下すこともできる。楽観的な思考に傾きがちなのは確かだし、世界に対する関心が薄れ、記憶力の低下が著しいことも自覚している。しかし、決定的に衰えたと感じるのは他でもない、注意力である。/『人間の条件について』で次のように書いたのをおぼえている―「ひらめきによってのみ、われわれは自らの内面にある独創的で価値あるものを感じとることができる。ひらめきをつかみ、吟味する方法を知らなければ、われわれは成長することも、活力を得ることもできない」。思考の最初のかすかな動きに対する注意力を蘇らせ、養うことはできるだろうか。砂金取りをしていたころ、泥をすすぎ流したように、洞察の断片を拾う洗鉱桶として日記を使いながら、数ヶ月間、自分の知能をすずき流してやれば、どうなるだろうか。/こういうわけで、今日からこの日記をつけ始めている。少なくとも半年はつづけるつもりだ。この仕事が終わったら、疲れた頭に至福の安息日を与えてやることにしよう。(6、7頁)

◆ぼくはブログを始めて半年過ぎました。日々更新は励行していますが、いくらかの洞察の断片を拾うことが出来たかどうか心もとない。ただ、洗鉱桶での作業は延々とこれからも続けるつもりです。何か『ヨイトマケの歌』が聴こえそう。⇒♪『波止場日記』『エリック・ホッファー自伝』(いずれも中村びわさんのbk1レビュー)