◆ゐさん、コメント欄紹介の“短歌作家となみさん”とゐさんとのやりとりを拝見しました。大江健三郎糸井重里を攻撃するのは簡単ですね、でも、糸井重里はそのことを分かった上で言葉を延命させようとしているのですね、恐らく、枡野浩一保坂和志が見るものは、延命でなく新しい内面の誕生の萌芽を感じるのでしょうが、理屈は分かっても、まず、ぼくが感じるかどうかでしょうね。それで、つくづく思うのは鶴見俊輔さんの『一人大衆』であり、おしょうさんが“方丈”のリアルについてで問題視している『自力/他力』であり、『一回性/再現性』であり、茂木健一郎さんがブログで書いている『悪貨/良貨』であり、でも、表層の戯れの差異だけで、内面は生まれないと思う。だからと言って大江健三郎の資本制を、結果として、見えないものとして書く作業は敬して遠ざけることになってしまう。恐らくそこにゐさんの言う“実存”であり、自力であり、狂気であり、かような触媒が必要だと思うのです。
◆ぼくは枡野式であれ、とみな式であれ、入り口は違っても、ポストモダンであれ、モダンであれ、そこにある種の狂気があれば、内面は自然と生まれるものだと思う。恐らく、ぼくらに不満なのは、ノーベル賞作家になった大江健三郎に“ある種の狂気”を感ぜず、むしろ中島らもにそのような狂気を感じてしまうことです。三島由紀夫にしろ川端康成にしろ、表現者としての狂気があった。最近、思うのですが、もうモダンとかポストモダンとか、メイン、サブカルなどの分析はどうでもいいのであって、作品に鶴見さん風に<一人大衆>の狂気があれば、そこに内面が生まれると思います。ただ、その一人大衆のアポリアを説明しようとも出来ませんが…。