表現が内面を生む

かなしーおもちゃ―あるある短歌〈1〉 (ココログブックス)灯台へ (岩波文庫)
枡野浩一さんの短歌ブログは人気上昇中ですね、だいたいぼくのブログの30倍のポイントです。ぼくが枡野さんの名前を知ったのは短歌でなく、去年、読書会で酒井順子の『負け犬の遠吠え』をとりあげたのですが、その折、サブテキストとして枡野浩一さんが書いた「書評小説」という連載(雑誌現代2003・1〜12月号)『結婚失格』を読んだのです。雑誌で“負け犬の遠吠え”の特集記事があり、その中で、枡野さんの小説が紹介されていたのです。ぼくは当時、書評って何だろうと、思っていたのですが、“負け犬の遠吠え”より、わざわざ、書評と冠した小説を書いた枡野さんに関心を持ち、でも、どこかで聞いた名前だと思ったら、保坂和志さんのBBSに時々カキコしていたのです。
◆ちょうどいい、ストレートに書評小説についてカキコしたら、枡野さんからレスがありました。当初、単行本化の予定があったのですが、様々な事情でベンディングになりましたという衒いのない返信でした。それから、枡野式短歌のことは頭の隅にあったのですが、去年の年末、遊び心で人気ブログにエントリーして“本と読書”のカテゴリーに参加したら、最初はベストテン線上にあったのですが、今ではベスト20位内にランキングしない。そうしたら、先月あたりだと思いますが、いきなり、“枡野浩一短歌ブログ”がベストワン、ありゃ、まあ、どうなっているの、ってポイントをみたら、一桁違います。それで、翌日クリックしたら、“本と読者”のカテゴリーから消えている。?でブログを検索したら、“マンガ・アニメ”ランキングに移動している。
◆そして、数日前、保坂和志さんが掲示板枡野浩一の世界を紹介している。面白いと思ったのは、保坂さんの、内面は「もともとある」わけでなく、「表現を得て生まれてくるもの」だという認識です。彼の歌集はそういうものです、とエールを送っている。内面は表現を得て生まれるんだと言う確信は小説家としての覚悟が伝わってきます。僕なりの理解で言えば、“表現”って誤解を生み出しやすい、味噌も糞も含んでしまう気がする。決まり文句、データからいつでも引っ張り出せるプロットという乗り物に言葉を当て嵌める。
◆先日、テレビで某有名女流推理作家の娘(昼ドラ女優)さんが、「母親は七本の連載をこなして、時々筋書き、登場人物の名前を間違えることがある」って、自慢げに話していたが、そんな“誰でも真似が出来るお手軽表現”だから、ベストセラーになるのでしょうか、そんな言い草は反論があるでしょう。言葉というピースの組み合わせにも企業秘密としてのスキルがある。簡単に真似なぞ出来やしないと、成程、そうかもしれない。でも、何度も何度も、再現出来るでしょう。再現出来るからこそ、資本性に馴染む。パッケージ化出来る。一回性のリアル度を犠牲にする。大量生産が可能となる。悪貨であることが要請されるのです。良貨は敬して遠ざける。そこには作家個人の表現はなく、内面も生まれないのは当然である。内面は忌避すべきものなのでしょう。
◆表層の戯れと言えば、格好がいいけれど、“表層としての表現”=内面ではない。表層としての表現にクリシェでない一回性の<狂気>が触媒となって生み出されるものが、ここに言う“表現”でしょう。その<狂気>を忌避するから、狂気を回避した表現しか出来ないから、内面が生まれない。そして小説も生まれない。小説は錬金術師のような因果な生業だと思う。“病としての狂気”と“新しいものを生み出す狂気”と見極めがつかなくとも、そのスレスレのところで、書き続けなければならないのだから…。小説のようなまがいものが余りにも多いのでしょう。そんな縛りを入れると、小説って少ないですね…。
◆そして、保坂さんはヴァージニア・ウルフの『灯台へ』(岩波文庫)を掲示板で取り上げている。新訳が出たのです。ぼくは『ダロウェイ夫人』、『オーランドー』は読んでいるのですが、翻訳は本当に貧しい読書体験です。さっそく、“中村びわさん”のレビューを読む。これはという翻訳は中村びわさんのブログで大概ヒットする。すごいもんだと、改めて感心しました。ゆっくりと、読み始めました。