白川静「混沌をして混沌たらしめよ。」

「混沌をして混沌たらしめよ。」、「風の旅人12号」の巻頭は白川静の自筆「混沌について」である。混沌とカオスは根本の概念は同じであるが一つ異なるところがあるとする。カオスが「口をあいている無底真闇のうつろなる空間」であるが、混沌は眼も口もない実体そのものだと理解して荘周の混沌の運命について書いている。混沌を実体として容認するなら、無痛文明を断固と拒否して“廃墟”さえ引き受ける覚悟は可能であろう。ただ単に学問のツールとして無痛文明を弾劾するような身振りをしめしながら、無痛文明を結果として受け入れているニヒリズムは実体のないカオスを、どこまでも落ちていく。
そんな問題意識があったので、ぴぴさん提唱の一人読書会に共振したと思う。ただ、ぼくはぴぴさんのアカデミックな読書計画にタジタジとなるが、いわゆる“おべんきょう”をするようなつもりはなく、ぼくの今、継続して孕んでいる宿題を、何とか、せめて、白川静さんが言うように、「混沌をして混沌たらしめよ」と実感したいという想いの方が強い。それで、コメント欄に書きましたが、備忘録としてこちらに一部改定転載します。

[……]ぼくの今の関心どころは、“狂気”なのです。狂気でしか、外部と繋がらないのではないか?外部と言ってしまうと、概念操作として使い古されているので、誤解されやすいですが、“リアル”に関する問題意識だといってもいい。リアルなら、おしょうさんの方丈で、もうすでに、やりとりされていますね、フーコーアガンベンもリアルについて考える場合、参照として読んでみたいと思ったのです。去年の大澤真幸からこの問題意識は継続しているわけです。だから、ぼくの前提にあるのは、思想家、作家研究、読書会というよりは、○○について考えたい、それのテキストとして○○を読むというわけ。だから期限を設けて区切るわけにはいかない。同時進行でアガンベンを読んだり、フーコーを読んだりするかもしれないが、明日、何を読むかわからないですね。ただ、テーマ、問題意識は明確です。“恥のようなもの”、“リアルのようなもの”、“狂気”です。だから、保坂和志さんの「新潮」連載の“小説をめぐって”もぼくの中に上記のテキストと同じものとしてある。勿論、茂木健一郎クオリアも考察の関心点として、繋がっているのです。網野善彦歴史観もそうです。白川静の呪の思想もそうです。思えば、映画、DVDも無意識にそういう問題意識で選択していますね。だから、僕なりの読むことが、ぴぴさんの読書会のテキストとタイミングよく重なれば、ネット参加の表明が出来ると思ったのです。

とまあ、こんなことをカキコしたのですが、ブログの操作し易さはネット読書会といい、色々なアフォーダンスが可能ですね。今週、そんなブログの面白さを永江朗『恥ずかしい読書』にbk1レビューで書いたのですが、書評というよりそのまんまブログだと思っていたのに、ゐ氏ともども今週のオススメに選ばれました。何か申しわけないっていう気持ちです。