代々木忠/「感じる男」になる方法

◆最近、つとに思うことは還暦を過ぎて「感じる男」になったなぁという想いが強い。正確には「感じる人」かな…。内分泌去勢療法の効果で「感じる人」になったというのは瓢箪から駒が出た嬉しい出来事です。こんな風に何でもない日常の風景を見て心が震えたり、犬や猫が擦り寄ってきたり、人々に気楽に声を掛けたり掛けられたりと、世界との違和感が随分少なくなったのです。別にぼくはレトリックを駆使するつもりはなくて、この世の中に「感じない男」が増えたらしいですが、その問題解決に僕が今現在進行中の療法は検討するに値するのではないかと、密かに思い始めたのです。
◆そもそも、すべての人間は「人間という症候」を病んでいるなら、僕のようにプロステイト・キャンサーの治療に限定しなくてもいいのではないか、そんなことをすると、性の煩悩から解放されるかもしれないが、「少子化」がより一段と進行することになり、やばいんではないのと、心配する向きもあるかもしれない。手立てはある。難民を積極的に受け入れ、人工授精、クローン人間化を検証する。この資本主義のシステムを全面的に否定出来得ないなら、戦略、戦術はかようなものでしょう。
◆性の煩悩から解放されたら生きる屍ではないのか、そうでもない、セックス・マシーンとして性の交換が出来るのは、「感じない男」「不感症女」であることが要請されるとの問題設定の方が僕にとっては説得力がある。まあ、ぼくの経験に根ざした理解ではそうなります。他の生きもの達のように子作りを目的にしないで、又は、愛がなくともセックス出来るのは、非常に優れた装置でもありますが、誤解を生む装置でもあります。だから、“やりたいこと”と“惚れていること”とが混乱して、やってしまって、目が覚めたといった過ちをしてしまったことは恥ずかしいことながら僕にもある。
◆でも、“やれなくとも惚れることはある”と、最近、思うようになりました。何か純愛話になりそうですが、そういうことでなくて、「感じる男」ってどんな男なんだろうと、このところ考えていたからなんです。そうすると、感じるとは男・女は関係ない、感じる人でしょう。「考える人」を考えるように「感じる人」を感じたいと強く思うようになったのです。それが、去勢手術の結果なら予想外の出来事が出来(しゅったい)したという驚きと感謝で、もし「感じない」ことに悩んでいるなら、ひょっとして僕のような療法を試みると意外と感じるようになるかもしれないと思ったのです。でもこれは言葉でもって説明しても中々説得出来ないでしょうね。
◆『優しい去勢ののために』(筑摩書房)の松浦理英子さんなら、僕の言わんとしていることは分かってくれるはずです。愛を語るなら代々木忠さんだなぁ…。あぶを語るなら高橋鉄、縛りなら団鬼六、家畜人沼正三カニバリズムなら佐川一政少年愛なら稲垣足穂少女愛なら沢山いて、名前をあげられない。松沢呉一さんに講義をしてもらいますか…。
そうやってどんどん枝分かれして性は迷宮入りしてしまうのであるが、そんなマシーンの性を語れば袋小路は当然である。「感じる人」になれば、世界は単純に寄り添ってくれる。代々木忠さんの愛でしか解決の糸口はない。資本制システムにしがみついている限りは、「感じない○」になる危惧を憶えるのは当然である。「感じないことで」享受出来るものを手放さないで、「感じる男」になろうと言うのは虫のいい話です。

2004-12-29 - 葉っぱのBlog「終わりある日常」
http://blog.livedoor.jp/pipihime/archives/14005096.html