♪戦慄/感じる/匿名性

前日のエントリーを親記事にしてコメントが長く、深くなりました。とても重要なやりとりで、それこそ、螺旋階段を登って、ふと、大木になる果実が手を伸ばせばもぎ取ることが可能な接近が、ここにあると、ヘンな予感がしますので、コメントの後半部分を親記事にアップして、このテーマを継続記事にしたいと思います。

# aya 『こんばんは。ちょくちょくROM&勉強させてもらってます。昨日、ロリコンでギャルゲー好きニートの若者が自殺をするために(停めてもらうために?)交番に特攻するなんて事件もあって、上記エントリをふくめ、いろいろ考えさせられることがありました。後藤氏のスタンスにわたしも賛成です(ただ、ちょっと前に流行した心理学的な「そう思いたいだけ」理論になってしまうと、きりがないんですけど(そう考えれば全てに必然性がなくなるので・笑))。そこで質問なのですが、「「感じる人」が一人でも多く増えていくような世の中作りをすべきでしょう」というとき、具体的には、どういったことでしょうか? 「ベタに“いのちの友情”を語ること」というのはよく理解できます。まったく正しい(とわたしは思う)理念だと思う。でもそれは理念であるがゆえに、その抽象性は「解決の糸口」という方向を向いたとき、リアリズムがすこーんと抜けてしまう。いやそれこそが回避になってしまい、むしろ解決の糸口が見えなくなるんじゃないかな、と思うんです(比喩がおかしいかもしれませんが、例えば割り箸論争における倫理的な決着点というような)。中心に据えているとみえる理念が、実は外部無き中心になって閉塞してしまうような…。『フィギュア萌え族』でも、「何の問題もない。」とわたしも思います。しかしこの必然性のなさは、彼らの嗜好に対しても、それならフィギュアやロリコンである必然性もないじゃないか、とも言い換えられてしまうように感じるのです。まとまりない文章になってしまいましたが(苦笑)、そんなことを考えさせられました。
さわこ様>『動物化するポストモダン』に関しては、ここの批判的注釈が参考になるかと思います。http://d.hatena.ne.jp/motidukisigeru/

# kuriyamakouji 『ayaさん、いらっしゃい、、
>「「感じる人」が一人でも多く増えていくような世の中作りをすべきでしょう」というとき、具体的には、どういったことでしょうか?

ぼくも具体的に提示出来ません。ただ方向性はそちらに向かわないと出口はないと思うのです。この問題に関して上に参照として上げた宮台真司氏の“工学院大学でのシンポジウム”で、より具体的な提案をしています。ぼくもさっき、村人さんの紹介で読んだところで、少なからず、ショックを受けました。まず、こちらを読むことをオススメします。』

# おしょう@山寺 『「感じる」にも、幅を考えないといけないのかもしれないと、突然思いました。
茂木さんのブログで、鈴木健さん(私は実はまだ存じ上げません)の
>世の中には、戦慄したことがある人としたことがない人がいて、
>したことがない人と戦慄について共感してもらうのは難しい。>だから、戦慄系を説明しても意味はない。
>分かるやつは分かる。分からないやつは分からない。
>ただそれだけだ。
という言葉が紹介されていて……。
感じる=戦慄すると、感じる=マニュアル本の平均値に収まっていて安心するというのじゃ、話が噛みあいっこない。世の中には「感じない」ことを表明することでアイデンティティーを保とうとしている人もいますし。』

# kuriyamakouji 『成程、ぼくはayaさんのカキコで「感じる」を「恥」に置き換えてみようかと思いましたが、(恥はこのブログで継続して取り上げている概念)、同じように具体的に説明してくださいという問いが発せられるのでしょうね、「戦慄」、にしろ、「恥」にしろ、多分、身体的な振る舞いとして概念措定したもので、その意味において「感じる」よりは具体的かもしれない。確かに「感じる」は“マニュアル本の平均値に収まっていて安心”ていう消費のされかたをするでしょうね。知識の陥穽にはそういう側面もありますから、自己弁明のための分析症候(無意識に大事なものを隠すために知のベールを構築する)に足元を掬われないように自覚的である必要があるでしょうね。
>世の中には「感じない」ことを表明することでアイデンティティーを保とうとしている人もいますし

このことはぼくも物凄く感じます。実名性/匿名性で検証してもいいかもしれませんね、「感じない」ことで「感じる」は、匿名性のアジールで自由になり、アイディンティティを保つ。宮台真司のシンポで地方でふるさと創生資金で建てられたポストモダンな建物がテレクラの待ち合わせ場所として使われたと言うレポは表は公的な建物が匿名性(感じない)で慰藉されて裏では性地(アジール)になっている。そんな宮台さんの指摘だと思うのです。
追記:このコメントはこれから続きそうだし、ブログで継続している「恥」の問題に繋がるので本日のエントリーにコピペしてアップします。』

参照:♪http://www.miyadai.com/index.php?itemid241『宮台真司・工学院大学シンポジウム』
『萌芽のようなもの、恥ずかしげに』
『恥で年を越してしまいました』