旧ブログより転載(2004/5/6)

『文明の内なる衝突』は、男と女の物語、良質な「恋愛小説」を読了した不思議な感覚があります。
 “ジジェク”(『汝の症候を楽しめ』)の問い、「浮浪者(街の灯のチャップリン)は、健康を回復した少女をなお愛することができるか?」と問う。大澤さんの問題設定はー犠牲者がその犠牲者性を返上したときに、なお「愛」は持続するかーですが、ぼくの設定はあの映画のジ・エンドから、自明の問い「少女は、あの男が汚らしい浮浪者であると知っても、なお愛することが出来るか、ー少女は出来た。無償の愛の提供があった。ーその前提なのです。恐らく、浮浪者は去るでしょう。その恋愛の不可能性についてです。後で、去るべきではなかったと、浮浪者は後悔しても、もう取り返しがつかないのです。その場では去るしか選択肢がないのです。だからこそ、「不可能性」なのです。その不可能性を通してしか、恋愛は恋愛足り得ないのではないか?
 モテモテ男の友人が、多数ある恋物語の一つにこだわった。
 「あれだけが、本当だったんだ、オレはバカだったんだ。」
 「あまりにあいつの無償性に圧倒されたんだ。もう、取り返しがつかない」
 あいつ(女)は信仰の道に入り、友人は精神に変調を来たした。
 そのことの理解というより、実感がないと、彼の「等価交換に回収されない贈与」、真の<普遍性>に到達するための和解に先立つ赦し(規範の一致や共有に先行する真に倫理的な赦し)の貌が想像出来ないであろう。彼は具体的に提案する。

大規模な贈与=援助がなされたとき、テロリストは、それでもテロリストでいられるだろうか、ということを考えてみよう。(中略)テロリストを最も困惑させることは、巧妙で過激な軍事行動ではない、ということだ。テロリストを困らせること、テロリストを真に出し抜くこととは、テロリストにとっての「敵」であるわれわれが、彼らの観点から見て、「善」と映ずること、「正義」と映ずることを行ってしまうことだ。具体的に言えば、テロリストに対して、喜捨=贈与を行うことである。(中略)/もしわれわれが、赦しえないこと、とうてい赦すことが不可能なことを赦すとするならば、「われわれ」は必然的に変容する。このような赦しは、アイデンティティの根本的な変更を伴わないわけにはいかない。

絵空事であろうか、でも、かような狭い穴を通ることでしか、糸口はないのではないか、〓問題を先送りは出来る。多分現実的な解決方法は、そのようにして対処療法でやり過ごすか、それとも、〓判断停止して、まるっきり、介入しないで、暴力の手に委ねる。世界が破滅に向かおうと、たった二人の男と女と言葉があれば、世界は又、回生できるかもしれない。かような方法〓〓を選択するなら、為政者に身を委ねれば良い。世界が破滅に向かい、身近に危険が迫り来るまで、太平楽を決めれば良い。少なくとも、ぼくは〓〓を選択しない立ち位置で考えたいのです。本書はまさに、その位置で具体的に考えている。絵空事であろうか?

われわれは、「普遍性」が不可能であるということ、それは偽装的なものでしかないということ、このことを何度も強調してきた。だが、実は、もし赦しが、ここに論じたような、私と他者のアイデンティティの根本的な変容を必然的に伴うとするならば、その赦しの瞬間にのみ、奇跡的に<普遍性>が到来する。

大澤は結語する。ー外に、そして内に調停不能な衝突を孕むわれわれの世界に。「共存」の可能性を与える要素があるとすれば、この否定的な<普遍性>をおいてほかにあるまい。−
 この困難さは恋愛と同じ位相の困難さであろうか?
 瞬間的に、奇跡的に、………。
性に隠喩して言えば、〓の臨床的解決は社会哲学の三幅対(大澤概念)で言えば、モダン、ポスト・モダンに対応した市民的又は、風俗的性(ちょいと、大雑把かな?)のシーンに駆動するが、〓は“例外的”状況を作り出し、三幅対で言えばナショナルなもの、暴力(レイプ)の介入です。ぼくが、いや大澤さんも拘泥しているのは、「からっぽな普遍性でない」恋愛について、それは、又、男と女を超えれば「恥」の考察なのです。
追記:pipiさんのブログより『見たくない思想的現実を見る』から、

金子:「大澤さんの場合、「普遍性は特殊性の結晶化」と言いながら、西洋近代=普遍性ではないと言うための文脈で、「普遍性は無である」という言い方をする。これは禅問答に近いんじゃないか」
大澤:「厳密に言うと、僕は「普遍性」と<普遍性>とを区別しているはずです」

ぼくは禅問答というより、恋愛問答に聞えたのです。