旧ブログ転載](2004/5/6)

この映画で、チャプリンが演じているのは浮浪者である。盲目の花屋の娘が、ふとした偶然から、この浮浪者を大金持ちの男と勘違いしてしまう。浮浪者は、この少女の誤った同一視をそのまま引き受け、何とか本物の金持ちから手術に必要な金をせしめて、少女に与えた。実は、ここに贈与のテーマーがあるということ、所有すらしていないものを与えるという原初の贈与にテーマーあるということ

大澤真幸の「文明の内なる衝突」からの引用ですが、大澤は「恥」の実践、として、中村哲の「ペシャーワールの会」を社会哲学の三幅対の閉塞を超えた実践への希望であると評価する。イスラム以上にイスラム的な、それは見返りのない徹底した贈与と考察する。ここで例証にあげられているのがチャップリンの名画『街の灯』なのです。ジジェクの『汝の症候を楽しめ』から引っ張って(226〜228頁)、具体的に贈与の問題を考えている。

原理主義自身が、資本主義の産物であり、その補完物でしかなかった。むしろ、イスラームを、その教義の中心部分において自己否定に追いやるほどに徹底させるべきだったのだろう。(225頁)

そんな贈与なのです。確かにそれが出来得れば、袋小路の因となる自他の壁は溶解するであろう。勿論それでも、残余として残ったものが自他を分ける「掛替えのないぼく、きみ」であろう。その中心以外は、徹底した自他の交換の場であり、おしょうさんの言う代替可能性の「情報身体」かもしれない。「ぼく」と「きみ」のない情報身体です。おしょうさんの希望の情報時代がそんな「情報身体」を指向しているのなら、確かに未来に希望がある。