死体には秩序があります。フィギュアには?

kuriyamakouji2005-02-23

前日のおしょうさんのコメント欄で書かれたことをこちらにアップします。

葉っぱ64さんはそこに“廃墟”を見られたようですが、それは「下(上)へ抜け出たところ」を見てしまうからで、抜け出ることが目的なのではなくて「偶然」を豊かなままにつなぎとめることを目指していたのです。下につなぎとめられた過剰(偶然)から「今」の必然を味わったところに「恥」が現われ、上につなぎとめられたそれからの味わいが「戦慄(おののき)」なのではなかろうか。きっと、「感じる」は、その双方に通じるものでしょう。

ここで言う“廃墟は不可視なもの”です。だからその廃墟が“おののき”に繋がる偶然がありうる。この場合の過剰/偶然がおしょうさんの中でどのように概念措定されているのか、はっきりわからないのですが、必然から溢れ出たものが過剰なのかと言う具合に解釈しました。ただ、「今」の必然を味合うには個としての徹底して磨きあげられたスキルが必要であって、端からノンシャラに偶然に身を任す振る舞いからは「恥」は感知出来ず、その味わいの戦慄も生まれない。そんなおしょうさんの見立てだと思いました。それは、恐らく方丈でのコメントでthomasさんが西洋音楽のアンサンブルについて同じような方向性でコメントしていると思います。(勝手に一部をコピペしました。お二人さんご了解下さい)

そのこつは、一般的な言葉で言えば、「他人と待ち合わせをしない。自らの道を歩んで相手と響きあっていることを信じる。また、自分の道を歩むときは、決して安全運転しない。全体を測らない。落ちる覚悟で、知っているとおり正確に歩む。」というようなことでしょうか(音楽に即してはもっと具体的に語れるのですが・・・)。メンバー全員それが完全にできると突如としてリアルな世界が現出する。ところが、一人でも「落ちる」ことを怖がる人、まわりの様子を伺いながら合わそうとする人がいるとアンサンブルは崩壊するわけです。/これがわかったとき、キリスト教とアンサンブルの精神のつながりも納得できました。アンサンブルの世界を歩むとき、人間としては「わが神、わが神、どうしてわたしをお見棄てになったのか」と言って死んでいったイエス(イエスという音写はどうも日本語としてよくないので、ヨシュアなり、英語のジョシュアの方がいいように思うのですが)の姿が思われてきます。その覚悟がないとアンサンブルにはならない。また、時空を超えたところで音楽(=世界の秩序)が響かない。

前日、紹介した宮台真司の“工学院大学シンポ”での“まともであること”はおしょうさんや、thomasさんの文脈と重なると思うのです。この長文なテキストを詳細に全文ロムしてもらうのがよいのですが、一部、引用します。

復習します。最初は「脱中心化」の話をし、次に「脱主体化」の話をし、最後に「脱標準化」の話をしました。もはや社会システムの回転にとって、(1)中心や頂点は必要なく、(2)自己推進的な主体も必要なく、(3)まともに標準化された身体も必要ない、という状況になったということです。それが社会システム理論家が考えるポストモダンなのです。/文学や哲学の領域で語られる「大きな物語から小さな物語へ」うんぬんは、今お話した「脱中心化・脱主体化・脱標準化」の、現象的な派生物に過ぎません。「脱中心化・脱主体化・脱標準化」によって、「大きな物語」が必要なくなったというのか、真相です。抽象的に言えば、意味論的なものが果たす一般化機能が、以前より軽減されたのです。/こうした後期近代的な「脱中心化・脱主体化・脱標準化」は、多様な生き方を許容するから良いではないか、と見做す東浩紀君のような立場もあります。でもこれはトートロジーですね。「脱中心化・脱主体化・脱標準化」を「多様な生き方」と言い換えただけです。/むしろ問われるべきは次のようなことです。東君は「動物化」という言葉を使いますが、動物であっても馬鹿であっても回るようなシステムをもって、「多様な生き方を許容する」と称していいのかどうかということです。/さっき言いましたが、「脱中心化」は近代一般のディスポジションです。「脱主体化・脱標準化」は後期近代のディスポジションです。僕自身は「脱中心化」に棹さしつつ、「脱主体化・脱標準化」については抗うべきだと思っています。なぜなら「脱主体化・脱標準化」は直ちに「うまく生きることと、まともに生きることとの乖離」を意味するからです。/なぜそれがダメか。まともであることを要求されない社会では、その社会のあり方の良し悪しを判断するための準拠点が、たとえそれが虚構であれ、空洞化するからです。例えば、立場可換性(オマエがオレでも耐えられるか)によって定義される公正概念は、完全に台無しになります。近代の諸制度は、正統性論的にこれに到底耐えられないと思います。

ぼくの“感じる”はここで宮台さんが言っている“まともであること”と方向性は似たようなものだと思う。「恥」も「戦慄」もその照射にあるのではないか、過去のエントリーで塚本晋也の映画『ヴィタール』に触れましたが、偶々、ぴぴさんからこの映画のパンフ(A5/320頁)を借りたのですが、宮台真司のテキスト『掘り続けて地球の裏側に突き抜ける』(166、7頁)が掲載されている。この映画はいわばレオナルド・ダ・ヴィンチを描いたとも言えます。ダ・ヴィンチルネサンス人として神が全能だから<世界>に秩序があるとした世界観を否定して、それでも、世界に秩序があるとただ、驚く。

あらゆる全体としての<世界>を、秩序(規定性)の相において観るとコスモス。無秩序(未規定性)の相において観るとカオスになる。教科書的には、コスモス優位の世界観をアポロン的、カオス優位の世界観をディオニソス的と呼ぶが、事態はもう少し複雑だ。/ダ・ヴィンチにおいては<世界>に秩序があること自体が、驚いて然るべき「端的なこと」だからだ。例えば彼は、解剖学的デッサンを通じて、<世界>に秩序があること自体にひたすら驚いている。そこでは<世界>の規定性が未規定性において体験されている。/神を持ち出さずに、「端的なもの」への驚きへと開かれる―。ルネサンス的=初期ギリシャ的とはそういうことなのだ。幼少期から解剖学を偏愛する塚本晋也監督は、ルネサンス的=初期ギリシャ的な「驚き」を、解剖実習にのめり込む医学生を通じて描いていく。/<世界>に秩序あるという「端的な事実」(という未規定性)への驚きへと開かれれば、人は殆どあらゆる出来事を受け入れられるようになろう。恋人が死ぬ理不尽、記憶を失う理不尽、自分が存在する理不尽を、受け入れられるようになる。つまり救済される。―『VITAL』パンフより―

ぼくにとって、死体(自然)は秩序あるものです。マトリックスの秩序でなく、端的な事実としての驚き。廃墟もそのような端的な事実として驚くものだと思う。何か前段と後段が多少論点がズレているような気がしますが、このままアップします。オカシイ視点は遠慮なく御指摘下さい。
参照:♪<方丈>
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