死体とフィギュア

下のエントリーで人形愛好家の古鳥護さんが自サイトの<http://www.geocities.jp/kotoba_mamoru/index.htm>をコメント欄で紹介して下さいましたが、厖大なテキストがデータ保存されて、まずその量に圧倒されました。とてもぼくには全文ロムするエネルギーはありません。せめて、古鳥さんの人形に対する想いを巻頭に掲げてもらえば楽しく読むことが出来たのにと思いました。大谷問題より自分自身の熱い人形に対する熱い想いを聴きたいということです。ぼくはあまり過剰な情報を隅から隅まで網羅してサーフィンすると眩暈がするのです。だから、2ちゃんねるは、近づかないのです。それより、探査機は自分に向かって問うことを意識して過剰にやるように振舞っています。
原則として、大谷氏のようなマスコミ人は無視なのです。だいたい僕はテレビなんかも殆ど見ません。彼の記事が掲載されている新聞も殆ど読んでいません。又、読む気も起こらないのです。そんな時間があるなら、一冊の古典を紐解いてみたい。何て格好のいいことを言って、古鳥さん、ゴメンなさい。陰ながら応援はしますよ。
ぼくも仕事として本を売っていましたが、会社全体の売り上げ規模はキャラ、フィギュア、人形、ホビーが大半をしめていました書籍部を持った玩具屋さんに勤めていたのです。だから、顧客としてでなく、売る側、マーケットとして、キティ、リカ、フィギュア、プラモなどには少なからず関心を持ってはいました。何せ、玩具部門の売り上げで何とか本を売り続けてゆくことが出来たからです。でも、今は書籍部門はブレーキがかかり、殆ど玩具部門だけですね、偶に元会社のこの玩具屋さんを覗くと、いわゆる玩具屋さんというよりはホビー、フィギュア、キャラ屋さんのデモンストレーションになっていますね、そんな陳列を眺めると、個人的には嘆いてもしゃあないと思っています。
大塚英志の『キャラクター小説の』(講談社現代新書)では、死体とフィギュアの入り口の差異について書いていますが、そして本書は純文学論争にまで発展する論争種を含んでいるのですが、この問題についてはいつか独立のエントリーで書きたいと思います。
要は、ダ・ヴィンチの死体には<世界>に繋がる契機があったが、フィギュアにはそのような<世界>につながる驚きがあるのかどうか、ぼくが一番、知りたいことはそのことなんです。例えば葉っぱの葉脈にはマクロコスモスに対応するミクロコスモスが感じられ、驚きを得る依代としての過剰(いのち)があるが、フィギュアにはそのような<世界>に繫がる驚きがあるであろうかということです。前日あげた、宮台真司の『VITAL』のテキストで、彼はかっての塚本晋也の映画に関してこんな風にコメントしている。

要は、都市において、人は<世界>から徹底的に疎隔される。ゆえに「自己回復」でなく「自己破壊」こそが救済になる。それが塚本晋也の都市論的な世界観だったはずなのだ。そこでは人間的たらんとする「人間回復」の断念が推奨されている。(中略)/「自己回復しようとする者が自己破壊を通じて救済される」という都市論を反復する塚本晋也が、唐突に、自己破壊した者たちの自己回復の道を指し示す。確かに福音だが、この道を誰が通れるかを考えると途方に暮れる。/結局、我々が手にしたのは福音か、絶望か。

クラッシュ系で救済を求めている人々とぼくは無縁であると、最近、つくづく思うようになりました。ぼくが<廃墟>なんて言うと、そんな自己破壊を依代にしているように聞こえますが、映画『VITAL』を観て、そうでなくて、浅野忠信演じる医学生の困難な道標が僕の道なんだと何か感情移入してしまったのです。まさに途方に暮れる困難さかもしれない。音楽(世界秩序)を奏すことが出来るか…。
★本日のアクセス数(211)