ドストエフスキーの風呂

前日から、急にお風呂屋さんの流れになってしまったので、「名作で読むお風呂シーン」をアップしてみました。ドストエフスキーの『死の家の記録』では石川五右衛門風呂に入った心地がしますが、追々谷崎潤一郎あたりの耽美派風呂シーンを紹介します。

浴室の戸をあけたとたんに、わたしは地獄へ突き落とされたかと思った。奥行きも間口も十二歩ほどしかないせまい部屋に、おそらく百人はいようかと思われる人間がひしめきあっている光景を想像していただきたい。(中略)目を刺す湯気、煤煙、どろどろの湯垢、足の踏み場もないほどの狭苦しさ。わたしは怯気づいて、引き返そうと思ったが、すぐにペトロフに励まされた。わたしは床一面にうずくまっている人々に、背をかがめてもらって、頭をまたいで通らせてもらいながら、どうにか、やっとの思いで腰掛のところまで来た。だが、腰掛の上の場所はもうすっかりふさがっていた。ペトロフが、場所は金を出せば買えるからとわたしに耳打ちして、すぐに窓際に陣どっていた一人の囚人と値段のかけあいをはじめた。その男は一コペイカで場所をゆずって、その場でペトロフから金を受け取った。ペトロフはそういう場合のあることを見こして、浴室へはいるとき銅貨をにぎってきたのだった。その男はすばやくわたしの場所の真下へもぐりこんだ。そこは暗いし、きたないし、そして一面にねとねとした湯垢が顔半分ほども積もっていた。しかし腰掛の下も場所は全部ふさがっていた。床一面、掌をつくほどの場所もなく、囚人たちがびっしりすわりこんで、身体を折り曲げて手桶の湯をつかっていた。すわれない連中はそのあいだに突っ立って、手桶を持ちながら、立ったまま洗っていた。きたない湯がその身体をつたわって、下にすわっている連中の剃った頭にじかにこぼれおちた。天井近い棚にも、そこへのぼる段々にも、囚人たちが鈴なりになって、身体をこごめて洗っていた。といっても、洗っている者はわずかだった。民衆は湯や石鹸で洗うことはあまりしない。彼らは思いきり湯気で蒸されてから、ざあっと冷たい水をかぶるだけだ―それが彼らの入浴なのである。棚の上で五十本ほどの白樺の小枝がいっせいに上下していた。みんなぼうっと気が遠くなるまで小枝で身体をたたくのである。湯気がたえずふき出していた。それはもう熱いなどというものではなかった。まさに焦熱地獄だった。耳を聾するような悲鳴や叫びを圧して、床を打つ何百という足枷の鎖の音がひびきわたった……通りぬけようとして、自分の鎖を他人の鎖にからませる者、下にすわっている者の頭に鎖をひっかけて、ぶっ倒れ、どなりちらしながら、そのままひきずってゆこうとする者。そこらじゅう真っ黒い湯の流れ。脱衣場との仕切り壁にある、湯をわたす小窓あたりには、押しあいへしあい、罵りあって、わんわんという騒ぎだ。せっかく湯をもらっても、自分の場所へ行き着くまでに、下にすわっている連中の頭の上へすっかりこぼしてしまう。しょっちゅう、窓や、細目にあけた戸口から、銃を手にした衛兵のひげ面が、何か騒ぎはないかと中をのぞきこむ。囚人たちの剃った頭や、真っ赤にうだった身体は、ますます醜悪に見えた。背中が蒸されると、いつか受けた鞭や棒のの傷痕がはっきりと浮き出してくるもので、いまこうして見まわすと、どの背中も新しい傷のように見えるのだ。(後略)ー『死の家の記録』(新潮文庫)工藤精一郎訳186,7頁ー

改行なしで湯屋の場面がまだ延々と続く。文そのものが、熱く濃密で圧倒される。十九世紀文学は文句なく面白い。笑える。ドストエフスキーはまだまだ、これからも生き続けるでしょう。
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