香山リカ(自己責任)旧ブログ転載

bk1には書評データーから検索出来る便利の良い装置 があります。キーワード『自己責任』で検索すると、過去の評者さんたちが投稿書評した本文中に「自己責任」をどのような文脈で使用したかが分ります。それで、検索したら、ぼく自身が、めたら、やったらと、使っている。それで、例証として投稿した書評、『プチナショナリズム症候群』を引用したいと思います。但し、著者権はbk1に属するので、ぼくの一文でも、全文引用を控えさせてもらいます。ほんの一部だけです。
参照: 【bk1自己責任・書評リスト】

数年前、入院した折り主治医から手術か放射線治療インフォームド・コンセントに則り【自己決定】を迫られた。この医療における人権尊重の概念を有り難がって、先生から説明を受けたが、この本の(あとがき)にあるように【自己責任】の自己を検証して、間違いなく私自身が自信を持って判断したんだと、言い切る事が出来たであったろうか? 【分裂(スプリッティング)】や【解離(ディソシエイション)】の心理的カニズムを作動させて、自己に取り込む事なく【切り離し】を屈託なく執り行い、【悩まない自己】を仮構して、恐らく複製された傷ついたDNAで自己決定した気がする。香山は「多くの医師は『医学的にはそんな方法で治る可能性はないのに』と知りながらも、それ以上、説得する事もなく、『そうですか、では、どうぞ』と患者の姿を見送るだろう。それは表面的には個を尊重する態度にも見えるが、実は知識や力を持っている側がすべての責任を引き受ける面倒を回避しているだけで、患者側にとってのメリットはあまり多くないのではないか」と述べる。自己責任の自己を(あいまい)にしたまま、自己責任の記号が(よきもの)として一人歩きしている危うさは性急に、問いを産まない解決を求めてしまう。「自分は他人と大きく変わっていないか、共同体の中で浮いていないか」と誰かさんと同じ【分身】になることで自己を確認したような気になる【鏡像的同一性】のメカニズムは自己防衛のために必要なのであろう。深く考えない日々の確認作業の中でどこかに、「この人こそが世間の代表者、永久にこの人の分身でいさえすれば、間違いない」という存在を求めたくなるのも自然である。香山は言う。「日本ほど安全で自由な国はないと言われる。果たしてそうであろうか。分裂と解離のメカニズムを多用しながら、我々がためらいなく口にしている事は『本当に言いたいこと』なのだろうか」》>>>つづく

2002年9月30日にアップされた古いものなので、ロムしてもらうのは恥ずかしいが興味ある方はリンクを辿って読んでください、それにしても、「自己責任」っていう言葉はいつ頃から頻繁に使用されるようになったのか、どうも、バブル崩壊の頃のような気がする。バブルのど真中でコミュニティが崩壊し、バブル後には土地と金の信頼が崩壊し、だからと言って、拠り所のコミュニティは無惨な様である。バブル前の「叙情の世界」を再現するわけにはいかないのだ。「神田川の四畳半」はムリだもんね。ぼくは別段、構わないけれど、銭湯は大好きなのです。もったいないから、仕方なく内風呂に入っているが、この郊外の地には、そもそも、銭湯がない。(2004/04/24記)
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