自己責任(2004/04/20・旧ブログネタ元)

◆みなさん、【自己責任】に鋭敏に反応していらっしゃる。誰かさんは今年(注:去年)の流行語大賞に選ばれるのではないかと、言っていますが、結構、ぼくは昔からこの言葉を良く使った。とくに、入院して治療方法の選択に先生達が別室で、たった一人の患者のぼくに相対して『インフォームドコンセント』の手続き民主主義を厳粛に挙行(虚構?)したとき、ぼくは自分に対して呪文のように唱えたのは「自己責任、ジコセキニン…」でした。治療方法の選択肢は保健適用範囲のメニュー定食で、端から「オレには自由意思がある」何て、傲慢なことは考えませんでした。勿論、入院まで時間があったので、それなりに勉強して情報の収集に精を出しました。しかし、治療実績、経過観察の結果としての数字です。競馬の予想と変らない。結局、三つの治療方法の選択は馬券を買うより、清き一票を投じる暗黙に指導教官の医師(意思)に従いながら、「オレが決めたんだ」と自分で納得させる装いで儀式を行ったのです。これって、「からくり民主主義」の虚妄と何ら違いない。でも、虚妄性の効用もあるわけだ。『インフォームドコンセント』という言葉もその当時、何か霊験あらたかのような感じがしたのです。♪「からくり装置」を通さないと、「自己責任」は出てこない。多分、人間は不自由な存在なんですよ、♪「自己責任」は色々な問題に飛び火する。仲正昌樹さんの『「不自由」論ー何でも自己決定の限界』(ちくま新書)はとても良いテキストです。<リスク拡大>って自己責任というハンディのない共通の賭博行為を極論すれば仮構しているのでしょうね、仮構であっても、賭博者は人生を生きているつもりになっている。でも、ギャンブルの鉄則は最終的に<資金力>なのです。だから、そんなギャンブルを無化する回路を<生きる>に接続することが課題だと思うのですが、ムツカシイ、財津一郎ではないけれど、非常にキビシー!