いい人を演じる

kuriyamakouji2005-04-03

◆あんまりにもスパムメールが多すぎます。いい人を演じようと思えば、耐えて耐えていかなくっちゃあ、アカンのか、スパムの確率は90%以上なのでしょうか、まあ、クレームの電話にしろノイズは90%ぐらいだと、某ジャーナリストが言っていましたが、メールの100%に限りなく近いスパムは100万分の一(某脳科学者の計算)の可能性に賭けているのか、鬼気迫る振る舞いに対しては冷静に削除を繰り返すしかないのであろう。それにしても、スパムもノイズも拡大、増える一方ですね、ハーバーマスたちのように癇癪を起こして、「西欧民主主義を達成した国、又は達成しようとする意欲を持っている国」だけを守ればいいって、なってしまうのでしょうか…。

仲正 「公共善」についてコミュニケーションをするということは、現実的には無理なことだと思います。アーレント古代ギリシャのポリスについて触れていること自体からいっても、虚構の世界だといわざるを得ません。またポリスの市民たちが、自分たちが社会に参加する「ストリー」を描きながら生きていることは、彼女自身もいっていることですね。あくまでストーリーであって、そのストーリーのなかで自分がアクターやアクトレスとして演じているだけなのです。私の言い方だと、「いい人を演じている」わけです。/つまり自分の眼が届く範囲のなかで、「自分は他者に対していい人でなければ、いけないなあ」と思いながら生活しているわけです。奴隷との立場の入れ替え可能性などあり得ないところで、いい人を演じているのです。ところが私たちはいま、奴隷との入れ替えの可能性がないなどとはいえない状況にあります。(中略)/アーレントが取りあげているような古代ギリシャの世界であれば、いい人を演じている世界は狭くてもよかった。自分と同じような市民のなかで演じていればよかった。しかしながら、いまは性別や年齢、宗教、エスニックなどの異なる人びとのあいだで、いい人を演じなければならなくなっています。すべての人びとに対して、いい人を演じることは不可能です。すなわち、ある人に対してはいい人になれるが、ある人に対しては迷惑な人になってしまわざるを得ない。(中略)/ようするに、再分配をするためには、ある尺度を設定したうえで、不公正な立場に置かれている人とそうでない人を分けざるを得ません。それは仕方がないことだと私は考えています。そして、ここで「自己決定」の問題が出てくるわけです。自分はどういう面で、どういうかたちで、いい人を演じるのか、ということを決める必要が生じるのです。万人に対していい人を演じるということは、スローガンとしては素晴しいのですが、それは単なる観念論にすぎないといえましょう。/社会的な「他者」に対する公正といっても、その他者というのはつねに、具体的な人間なのです。私たちは、誰か特定の人にとってのいい人を演じようとするのです。自分がいい人を演じていると思っていても、十年後には悪い人だと思われるかも知れない。現代に生きて、「いい人」を演じようとしている私たちは、将来にわたるそういうリスクを引き受けざるを得ないのです。/現代のような複雑な社会でリベラルな観点に立って、いい人を引き受けるということは、一方で大悪人だといわれてしまうかもしれないという意味での互換性を想定していなければならず、そういうことを念頭においたうえで、自分がコミットしようとする公共善の基準を決定すべきだと私は考えます。−宮台真司×仲正昌樹『日常・共同体・アイロニー』77頁より−

◆神が死んだとか、人間が消滅したとか、大文字で語らなくとも、いい人の人が「人間」(近代)を維持しているのは、それは多分教養主義に支えられた「人間観」であったろうが、そんな教養主義が没落して、かたちのない、見えない文化を足蹴りにして、俗情第一の大衆社会を資本の論理で呼び寄せたわけでしょう。それでも、そんな「教養人間」をリスペクトするコンセンサスがあったですね。今ではそれが怪しくなって「教養人間」がバカにされている。教養って数量化出来まヘン。そうやってバカにされても、平気の平左で毅然と持ちこたえていればいいのに、それはムツカシイ。肝心の「教養人間」が「相対主義」の寄る辺なさを免疫力がないまま、ストレートに受容して内部から自己不全感に苛まれアナーキーまでに瓦解する。そんな屈折度を通して、強かな奴はプラグマティズムを懐に政治のシーンに登場して世界を動かす。そんな見取りから見れば、事実として人間を掌握する手続きは「人権概念」、「環境保護」、「動物愛護」、「差別」、「ジェンダー」を通して、「事実としての人間」の範囲が伸びたり縮んだりする。鉄腕アトムも、イルカも、キティもフィギュアも「他者」として立ち上がれば、「事実としての人間」と何ら変わらないであろう。逆に、そんなクローン人間まで拡大する想像力がなく、アーリア人種、ヤマト人種だけが「事実としての人間」で他者足り得る。そんな狭い狭い範囲でいい人を演じてもつまらないと思うが、そんな事情は端から承知で、想像力が貧困でなく、大衆社会の拡大に、テロにイライラして「人間」大好きのハーバーマスネオコンのおっちゃんたちと同じ振る舞いを結局はやってしまう。いい人は一人で演じることは出来ない。他者を発見できない奴には、そもそも、いい人を演ずることが出来ないのに、逆に他者を「無」に追いやって、見えなくして「私は、いい人」と自己満足する。こんな理解は間違っていますでしょうか…。せめて、リーチをキティまでのばした「ニンゲン」理解で「いい人」を演じたいが何ともムツカシイ。
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