他者との遭遇

暖かい一日が続いています。半年ぐらい前の旧ブログでこんなことを書いていました。

ブログに日々更新を継続しているが、ぼくの引き出しは高が知れているのか、日々のニュースに合わせたコラムにしても、良くも悪くも葉っぱ節が出て、ロムする方は楽しんで?くれるかもと、楽観視しているが、カキコする本人が、そのマンネリに多少、嫌気がさしているみたい。それで、気分を変えて、引用という乗り物で別の風景を楽しむのも一興かと、仕掛けてみました。ちょうど、下記でゴダールの『映画史』(筑摩書房)から引用しましたが、本書を読んでいると、生徒を前にした彼の語りはライブ感覚で、翻訳であるけれど、ゴダールの生き様がヴィヴィドに伝わる。テキストとして取り上げられた映画だけをトッピングで紹介すれば、ぼくも、みなさんも、楽しむことが出来るのではないかと、初の試みをしました。本日はスピルバーグの『未知の遭遇』です。ゴダールはこの映画で第三種の接近遭遇《注:UFOの目撃(第一種接近遭遇)、UFOの物的証拠の発見(第二種接近遭遇)につづく、UFOの搭乗者との接触のこと。》を見たいと思ったのに、それが、実現しそうになった途端、ジ・エンドで千五百万ドル分の卑怯と詐欺行為があると、スピルバーグを罵っている。

しかし、リアルタイムでこの映画を観た時は素直に楽しむことが出来ました。ゴダールの批評を読むと、“詐欺だ”と言っていますが搭乗者との接触になると、例えばは、ヘルツォークの『アギーレ、神の怒り』でクラウス・キンスキーが演じた禍々しい振る舞いになる危険性もありますね。

……それに、『スター・ウォーズ』とか『未知の遭遇』といった今のハリウッドの映画は、私が思うに、よりずっと形而上学的な映画で、おまけに、形而上的な映画としてはかなりできのわるい映画です。というのも、私がたとえば『未知の遭遇』を見るとき、私は第三種の接近遭遇というものを見たいと思うのですが、映画は、それが実現しそうになったとたんに終わってしまい、見ることができないからです。あれこそ、−名づける必要があるとすればー《卑怯》と名づけるべきものです。事実、あそこには千五百万ドル分の卑怯があるのです……
 文盲?……いや、文盲じゃありません。スピルバーグは自分には教養があると思っています。彼はある大学の出です。大学で教えている映画というのはああしたものです…… かりに私が彼になにかを言うとすれば、それは、《なあ、これじゃあまり勇気があるとは言えないよな》というものです。事実、彼はそれほど勇気のある男じゃありません。なぜなら、かりに彼が本当にUFOと遭遇するとすれば、彼にはその搭乗者に向かってなにを言っていいかわからないはずだからです。それに対して私はどうかと言えば、私はいわばUFO(未確認飛行物体)のようなものであるわけで、私には、彼に向かって言うべきことはたくさんあるのです…… それにしても、彼はあまりにも度がすぎています。卑怯だと言うことさえできません。むしろ詐欺師と言うべきです。でも私はまた、彼の巧妙さに……千五百万ドル分の見事な詐欺に感嘆してもいます。しかも彼は、その詐欺によって八千万ドルの利潤をあげるのです。私はこのことにいつも感嘆しています。だから、私は彼を心底から恨むことはできません。私が彼を恨むとすれば、それは、彼がこうしたことについてなにも語ろうとしないということに対してです。−
 退屈? いくらか退屈です。でもあの映画がもっと長くつづけば、それに宇宙船に入ることができるようになったあと……だから、宇宙船のなかのセットをつくるべきなのです。もう少しアイディアを思いうかべるべきなのです。ところが、映画はそこで終わってしまうのです!−『映画史1』75、6頁より、

『UFOの搭乗者との接触のこと』は今日的な問題でもあります。違った文明、文化、宗教など、UFOという他者を発見するが、まあ、接触した驚きが下で村人さんがコメントしてくれたように“他者の発見”になるのでしょうが、確かにその瞬間は歓びでしょう。が、その後について語るのは困難ですね。他者性を維持して堪える強靭な<私>を持っている自信がない。脆弱な<私>は折角接触したのに、“見えないもの”として視界の外に追いやるであろう。そうならない人間になることを願うばかりです。