他人の欲望

 バブル崩壊後の話ですが、あるところから、某ブランドのライターを一ダースほど、頂戴した。ニセモノでなく、まちがいなく本物ですが、せっかくの好意ですが、僕は入院する時、禁煙してそのまま、ず〜と、その習慣が身についているので、様々なデザイン、手触りを楽しんだのですが、見ているだけで使わなければ勿体無い。仏さんの線香に火をつけるくらいだけ。
 それでまず、喫煙者の友達にあげたのに、それでもはっきりと拒絶されたオヤジが二、三人いました。「ブランドなんて嫌いなんだ、百円ライターが好き」ってけんもほろほろの応対なのです。僕と違ってその友達は頑固なほど自分の生き方に信を置いている。恐らく分裂症的か、多動症的か知らぬが、“私が私である”ことが不快である、そんな埴谷雄高的自同律不快とは無縁の人でしょう。
 北杜夫と埴谷雄高との対談『「難解人間vs躁鬱人間」』(中央公論社)はもう手に入らないが、図書館のリサイクルでもらって、別の図書館に寄贈しました。多分、絶版ものですが、本として再生され、キタさん、ハニヤさん本の販促にナノミリグラムほど貢献すると思います。難解人間とは妄想人間なんだろうから、僕は妄想的、統合失調症的か、こんなくだらぬことにカキコ脱線することが、その証になります。(本書では北杜夫の株売買の話から始ります。だから、躁状態では僕の見取りは大幅に外れます)
 何が言いたかったというと、せっかくの僕の贈呈を拒絶した友人達は躁鬱気味の友であったということです。こんな二分法は遊びとしての思考実験なのですが、あながちズレていないと思う。
 僕のような妄想型は良く言えば好奇心が旺盛、悪く言えば他人の欲望が気になってしまう。極端にゆけば「欲望している何かを」追い求めて、その「何か」がさっぱりわからないのに、そのわからなさ不安を生きる駆動力としている。
 「他人の欲望」の実体はないと承知してもラッキョウの皮を剥く行為に「生き生きライフ」を仮想している。でも、躁鬱の人って、自分の欲望が頑固に見えている感じがあります。だからなのか、男、女を問わず、僕が惹かれる人は躁鬱の人が多いみたいです。電子ライターの話ですが、若い人はみんな喜んでもらってくれました。ブランドが大好きだというのもありますが、相対的に妄想型の人達が増えてきたのかなとの認識があります。まあ、何のデータ上の根拠はないのですが、資本主義のシステムが駆動するには、実体のない他人の欲望を生きる妄想の方が商売がしやすいのでしょうか、
 風の旅人ブログで「人間の不安心理」についてのエントリーがアップされていますが、「不安」が「臆病」を生み、「備え」となって、華奢なホモサピエンスが大きくなり、地球上の王となったとも言えると書いています。僕の過去ログで、内田樹関係のエントリーでも書いているはずですが、「死者の発見」が他者を見出し、「不安」を慰撫するために、「葬祭」が行われ始めた。恐らく、そのことと、現在只今資本制のシステムに乗っかっている「他人の欲望を欲望する」振る舞いは、そんなOSがなくとも駆動していた人類誕生以来の業なのであろうか。
 しかし、そんなことに無頓着な人間はマイノリティながらいることはいるのです。せっかく、工芸的にも優れものの電子ライターなのに、「百円のほうがタバコが美味しい」って断わられましたが、別に腹は立ちませんでした。彼らの生きるスタイルに改めてちゃんとした骨があるんだと、納得したのでした。 
 今日の日本経済新聞夕刊の特集記事「生き生きシルバーライフ?」に先週取材された内容が掲載されます。どんな記事になるか想像がつかないのですが、冷やかしに読んで笑ってください。窓口はbk1の書評だったので、多分、読書を通したネットの広がりで「生き生きライフ」を実践しているシルバーさん達というノリの記事だと思います。だから、皆さんの中の一人として僕が紹介されているだけだと思います。夕刊を読んでその感想、弁明、修正、余談をここに追記として後でアップします。

  • 追伸:夕刊を読みました。ホンの数行です。メインは僕より年輩の方たちの読書会で、名古屋の図書館が会場です。僕の記事はキーボードの文字打ち練習から、bk1のネット投稿書評へ、そして、同じ本の書評から若い?女性の方のHPに訪問して、意気投合、読書会へと発展したとある。でも、参加メンバーが数人とはささやかですね、名古屋の方は70代、80代で数十人の参加です。だから、記事としては地味になりました。レビュージャパンの代表の方もコメントしていました。レビュージャパンbk1と両方に書評アップしている方は結構います。第一回目の読書会は酒井順子の『負け犬の遠吠え』というレポはちゃんとしていましたが、先輩たちは、源氏物語だとか、古典ですね。輪読会に近いものでしょう。