蟻とキリギリス

『風の旅人』さんのブログ「年金と“生命力”」を読んでいたら、小骨が喉に引っかかった感じで、自分の生命力の濃度を確認したくなりました。以下「風の旅人」から引用します。

”将来に対する備え”と言う際の”将来”は、いったいどの年齢になった時のことを指しているのだろうか。20代前半で、60歳以降のチマチマした人生に対して、備えをしなくてはならないのだろうか。10代(早ければ、小学校に入る前から)で、30代、40代になった時の大企業なのかお役所なのかわからないが世間的に安定した組織と言われている集団の一員である自分を想定して、チマチマした日々を送らなければならないのだろうか。20年経てば、世の中の価値観がどうなっているかわからないのに。

僕がこんな風に言うと、自己正当化になってしまい、身内に失笑されます。僕は反面教師になっているのです。でも、近親にかようなオヤジが、キリギリスが、極楽トンボが一人でもいることは家族そして共同体にとっても大切なことだと思う(又、ヌケヌケと言う、アカンなぁ…)。
考古学者が発掘作業にエジプトでしたか、村の長に作業の段取りをすべて任せる。殆ど村人が総出で参加するのですが、一人の若者が働かないで日が昇り、日が沈むまで、歌を歌っている。最初、考古学者は許されざる若者のサボタージュだと、近代的な思考法で疑問を感じたが、やがて自分の過ちに気がついた。結果として、作業が予想以上に捗ったのです。多分そこには労働というより祭りに近い働きが、共同体全体の運動としてあったのだと思う。

「武田徹オンライン日記4/26“弱さについて”」は、そんな「弱さ」、ここでは「キリギリス」と言ってもいいが、弱者を排除する共同体は脆い、弱者を抱え込むことで共同体は内部から鍛えられ強さに繫がる逆説が起こる。そんな武田さんらしい思考プロセスを披露している。弱者を受け入れられない人は相対的に弱い。最後の最後に実を取る功利的な面から言っても、アリがキリギリスを受け入れるのはベストの選択だと思う(僕が書くとどうしても自己正当化の臭いがしますね…)。

 チマチマとビクビクした”備え”の心情が、世を硬直化させる。
 例えば、こんなことがあった。「風の旅人」をホテルの客室に置いてもらう方向で、ホテルのスタッフと話しを進め、現場レベルではOKだった。しかし、結果的に上司がNOと言った。その理由は、「風の旅人」の良さはわかるし、気に入ってくれるお客様もいるだろう。しかし、生老病死のきわどい部分も扱っているため、100人に1人は不快を感じるかもしれない。たとえ100人のうち99人が喜んでも、1人の苦情の可能性は排除しなければならないという。そのように判断する人も、ただ臆病なのではない。思慮深いのだ。生老病死に向き合いだけで、”不快”だと苦情を言う人間は、やりきれない話であるが、確かにたくさんいるのだから。
 けっきょく、政治とかマスコミも、そういう国民心理の構造の上に成り立っている。
 国民意識が変わらなければ、国民国家は、どうにも変わらない。

「安全」のために動物化を受け入れる方向性に科学技術が進展することは抗し難い。恐らく100人のうち99人がそんなアリの備えを支持するだろう。でも、せめて一匹の“キリギリス”を排除しないで許容してもらいたいものです。犯罪ゼロのユートピア国家はおぞましいものです。だからっと言ってアナーキーを歓迎しているわけでない。

 しかし、本当の意味で、一番の”備え”というのは、大きな意味で”生命力”を身につけることなのだ。そのことに気づかなければならないのだ。環境がどうなっても生き抜いてみせるぞという自分を、各自が作りあげることが大事で、外部環境に”備え”を期待するばかりだと、最後に環境に裏切られて辛い思いをするのは自分なのだ。

僕はキリギリスであるけれど、“生命力”には変な自信がある。と言っても、確たる手札は何にもないのですが、あるとしたら、身軽であることでしょうか、失うものは何があるだろうか?って考えて、老母に遺言書を書こうかと言ったら、冷笑された。書くとしたら、蔵書はすべて某図書館に寄付しかない(笑)。
科学技術は人間(生権力としての人口)の平均寿命をアップさせていることは否めない。死を穢れとして排除する不老不死の欲望がこの文明を支えているなら、先日みた尊厳死映画『海を飛ぶ夢』は特異点から、この文明に対する一振りの、いや天を斬る一太刀ではないか、ラモンを理屈で許容出来なくてもリスペクトしたいと思う。