恋愛小説は久し振り

7月24日通り
「だから私も、一度くらい間違ったこと、ちゃんとしてみる」、この台詞を大人の女に言わせるラブストリーです。成功ですね、説得力がありました。オヤジは段々と物語に入り込んで、この台詞で、ぐぐいと、高揚しました。まあ、涙腺混じりなので、哀しいハイテンションかも知れない。吉田修一は恋愛小説に磨きがかかっていますね。『パーク・ライフ』で芥川賞デビューを果たしたときは、その何も起こらない凪に苛立ちして選考委員の石原慎太郎池澤夏樹は辛口の評であったが、僕はとても気に入った小説でbk1の拙レビューでも珍しく五つ星をつけました。

吉田修一芥川賞受賞の挨拶で「小説を書く事と作家になる事とは、どこか違うような気がする。自分が今、小説を書こうとしているのか、それとも、作家になろうとしているのか、正直なところまだ判らない」と述べる。彼は<小説>と<作家>に微妙なズレを見て何を言わんとしているのか。彼はロングインタビューで「最後の息子」が単行本化された時、小説を書くという事は作家になるという事に直結するんだと思い至ったと書いているが…。恐らく、彼は「生の現場」とズレた「公園の磁場」(パーク・ライフ)の外で生きなければならない覚悟を突き付けられ、その逡巡が冒頭の挨拶になったのではないか。その答えはこれからの作品で徐々に明らかになっていくであろうが、その事は「パーク・ライフ」の結末で「よし。…私ね、決めた」と公園で知り合った彼女に呟かせ、主人公の想いにシンクロさせる。作者は別段、物語を否定しているわけではないのだ。むしろ、物語願望が人一倍強いのだ。なんらかの倫理的決断によって作家は成るという想いを彼は持っていると思う。池澤夏樹は「文学というものはせめてそれくらいは倫理的である」として、この作品を評価しなかったのであるが彼としてみれば、「物語以前の緊張感」の射精の一瞬前を描写したのに射精を描いていないが故に、単なる不能のスケッチ小品と読解されたのは心外であったろう。「太陽の季節」の作者も一顧だにしないが、一見、インポテンツ青春文学を装った「パーク・ライフ」は実は性と暴力に満ちた青春文学と言えなくはない。
 高樹のぶ子あたりもーそれにしても、この透明な気配はどこから来るのかと考え、若い主人公の周辺に性の煙霧がないせいだと気付いた。性欲が無ければ遠近のバランスや歪みや濃淡が消えて文学はかくも見晴らしが良くなるのだ。若者の「今」が稀薄になったのではなく、別のもので満たされていることをこの作品は伝えている。ーと書く。だが、作者はー「熱帯魚」の大工は少女とセックスはすれど、僕にはああいうのは逆に性欲に乏しい人間のように見えるんです。「パーク・ライフ」の主人公の方がきっと、性欲が強い。ーと述べる(文学界ロングインタビューより)。
 「どんな嘘をつくか僕はそれで人を判断する。だから僕自身、みっともない嘘をつきたくない」「僕は無神経なものが好きでない」(グリンピースより)。
続きはこちらで⇒『ひょっとして、危険な物語作家かもしれない』

この『7月24日通り』は悪くはないけど、『パークライフ』の方が好きですね、でも、『東京湾景』にしろ、テレビドラマ、映画化にこちらの方が適しているのは間違いない。読後感は巧みに映像処理された恋愛映画を観た気分で、そうか、読み終わって何か、寂しくなったのは、映画の場合は二人で観て二の二乗で感動がヒートアップするが、読書は常に孤独な穴掘り作業だもんな…。