多和田葉子

ゴットハルト鉄道 (講談社文芸文庫)
91年、『かかとを失くして』で群像新人賞、93年、『犬婿入り』で芥川賞を授賞、この二作品はリアルタイムで読んでいて、その奇妙な読後感は内容の詳細は殆ど忘れたが納豆のぬめぬめ感というか、大蛇を触ったことがありませんが、そんな気持ち悪さがあるけれど、惹かれてしまう、まるでプリン風呂にはまり込んだか、太古の底なし沼にずぶずぶと足をとられて、でもそれは河童の責にしてだらしなく嵌ってしまいたい、そんな湿った舌のなぜなぜ感を感じる文体なのです。だから、無意識のうちにこの作家のものは近づかないようにしたのか、今回、この『ゴットハルト鉄道』を読んだのは、作家の作品としてほぼ十年ぶりになるのですが、世界をどこまでも形のさだまらない軟体動物の質感で刻んでいる。彼女の言葉は生きものの気味悪さがあるのです。冒頭を引用します。

 ゴットハルト鉄道に乗ってみないかと言われた。ゴットハルトという名前の男に出くわしたことは、まだない。ゴットは神、ハルトは硬いという意味です。古い名前なので、もうそういう名前の男は存在しないということなのかもしれない。そういう名前の男は見たこともないのに、この名前を始めて聞いてから三分くらいすると、ある風貌が鮮明に浮かび上がってきた。針金のようなひげが顎と頬に生えている。唇は血の色をしていて、その唇が言葉も出てこないのに、休みなく震えている。口をきこうとしない男。目は恐れと怒りでいっぱいで、打ち砕かれる寸前のガラス玉のよう。
 ゴットハルトの中を通り抜けて鉄道は走る、とスイス人たちは言う。つまり、男の身体の中を通り抜けて走ると言うこと。長いトンネルに貫かれたその山は、聖ゴットハルトとも呼ばれています。つまり、聖人のお腹の中を突き抜けて走るということ。わたしはまだ男の中に入ったことがない。誰でも一度は、母親という女性の身体の中にはまっていたことがあるのに、父親の身体の中というのは、どうなっているのか知らないまま、棺桶に入ってしまう。

世界は知ることが不可能なのであろうか、ただ、その硬い世界を揉み解して、皺だらけにしたり、柔らかくして、突き抜けることが出来ぬとも中心に近づくことが可能かもしれない。表題の作品の他に『無精卵』、『隅田川の皺男』が収載されています。彼女はもうハンブルグ市在住で作家活動を始めて廿年以上なんだ。「皺」っていうのは日本語とドイツ語の波間の窪みなのでしょうか、異文化の境界線で生きるというのはそんなしわしわなのでしょうか、
参照:http://www.happano.org/pages/profiles/yoko_tawada.html