ミッション

戦争の世紀を超えて
戦争論』のクラウゼヴィッツの言うように戦争が政治の延長なら交渉の余地も落としどころもある。『戦争の世紀を超えて』の森達也はそんな政治的判断からもブッシュがイラクに侵攻することはありえないと予想していた。確か田中字さんもそうだったし、僕自身だって合理的に判断すれば、侵攻はあり得ないと思っていた。恐らく日本政府だってそんな観測はあったと思う。ところが、ブッシュは侵攻した。石油利権や軍産複合体ネオコンのレベルでなく、ブッシュの善意、無限の正義、本気でイラクの市民を圧政から救い出すつもりで空爆を始めたと森は理解する。ミッションなのです。

姜 そういうミッションを世界最大の国家が持ってしまった場合に、いったいどうなるか。それをある人は帝国の平和、それこそ平和だという人もいるかもしれない。前に、評論家の加藤周一さんと話しているとき、彼は非常に劇的なことを言いまして、要するに今後、奴隷の平和に甘んじるのかどうか、という問題提起です。平和なら、極端に言えば奴隷でもいいという考え、奴隷でもいいと言うのは、世界で悲惨な出来事が起きていても関係ない、正義も関係ない、生活のアメニティ(快適さ)だけを求めて、いいものを食べてエンジョイできればそれでいいじゃないかという意味です。そういうふうに平和に甘んじる生き方……。加藤さんの鋭い問題提起に一瞬たじろぎましたね。
森 世界中がアメリカの州になるということですね。
姜 そうそう、極端に言えばね。もちろんそういうことはありえないけど。でもフランシス・フクヤマが歴史の終わりだというのは、そんな意味だったのかなと思うわけです。つまり退屈だけれどもアメニティが保証されて、心地よい「平和」を求めること。
 もちろん現実はそうならない、いろんな矛盾を孕んでいるし、抵抗も起きているしね。ただ、はっきり言えるのは、アメリカはそういう普遍的かつ抽象的なミッションを掲げる最後のランナーだということです。例えばヨーロッパはEU統合拡大に向かっていても、自分たちはローカルだと知っている。自分たちは広い世界の中にあって、ヨーロッパという形で生きていこうという考えなわけです。アメリカの場合にはそうではなく、間違いなく帝国化していると思う。それを支えているのは、正義のミッション。これはベトナム戦争のときも朝鮮戦争のときも、共産主義との戦いという形で一貫して流れていた。それが根っこにある限り、歯止めがかからない。やらなければならない戦争があるという考え方が、いつでも出てくるわけですよね。
森 でもね、あえて言えば、ヨーロッパにローカルだという意識があるからこそ、今後も戦争が続くのではないかな。つまりコアを想定しての辺境ですから。国民国家の発想はそもそもヨーロッパの基盤です。もし世界中が国民国家の発想をやめて、「はい、じゃ、アメリカさんOK、僕らみんなあなたの州になりましょう」となれば、世界平和は実現できるかもしれませんよね。もちろん民族紛争や宗教問題は残るでようけれど、今後何世紀かに何百万人、何千万人、核兵器が使われたら何十億人かもしれない人命が失われることを考えたら、むしろどうぞ統治してくださいという発想のほうが正しいのではないかな。
姜 それは暴論かも……。(235頁)

姜尚中は第四章「そろそろ違う夢で目覚めたい」で書く。

[……]複製の再生産に抗うリアルなものとの出会い、これこそ、記憶の場所で私たち二人が捜し求めていたものかもしれない。そして私たちは、気づいた。リアルなものの発見には、「テレビ・ニヒリズム」に支配された日常のリセットが必要であることを。それは、言葉の喚起する感性的な直感力によって可能なのだ。言葉を、個別的経験の宿る言葉をもう一度とりもどさなければ。それだけが、新しい夢につながっていくのだから。死者の経験から絶縁した映像や言葉など、所詮はファンタジーにすぎないのだ。(250頁)

死者は語り得ぬものとして、むしろ、徹底して絶縁したポジションから語ること必要ではないかそれは自分の裡なる「他者の発見」であろう。それは又、新しい「日常の発見」、「目覚め」であろう。でもそれは、恐らく絶え間なく更新され続ける…。でも、表層のテレビ・ニヒリズムを回避したリアルなものと確信しても、それでも、人は言うだろう。「所詮、ファンタジーに過ぎない」と…。
では、何を拠り所にすればいいのか、そんな難しい課題を内田樹の『他者と死者』(海鳥社)は対峙していると思う。